かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

2022年4月の読書

4月の読書メーター
読んだ本の数:18
読んだページ数:4723
ナイス数:441

サリー・ジョーンズの伝説 (世界傑作童話シリーズ)サリー・ジョーンズの伝説 (世界傑作童話シリーズ)感想
#福音館70周年 彼女の名はサリー・ジョーンズ。それは関税の支払いをけちった商人が、生まれたばかりの赤ん坊にみせかけて乳母車ごと客船に乗せたその時の、偽造パスポートに書かれた名前だった!? スウェーデンの作家が波瀾万丈のゴリラの半生を描いた絵本。
読了日:04月28日 著者:ヤコブ・ヴェゲリウス
ファシズムとロシアファシズムとロシア感想
原題は“Is Russia Fascist?: Unraveling Propaganda East and West” フランス出身の国際政治・政治思想研究者で、ジョージ・ワシントン大学ヨーロッパ・ロシア・ユーラシア研究所所長、同大学の教授でもある著者によって2021年に書かれた比較的新しい本。そもそもファシズムとはなにか、という考察もさることながら、「記憶のヨーロッパ化は、法のヨーロッパ化よりもはるかに達成困難だ(p125)」とする第4章の「記憶をめぐる戦争」が心に残る。
読了日:04月25日 著者:マルレーヌ・ラリュエル
堅物侯爵の理想の花嫁 (ラズベリーブックス)堅物侯爵の理想の花嫁 (ラズベリーブックス)感想
kindle unlimited:旧態依然の保守派侯爵が社会改革派の先頭を行くような田舎郷士の娘に一目惚れ。彼女と知り合ううちにいろいろなことに目覚めていく…。表紙の装丁からはちょっと想像ができないような展開でびっくり。そろそろロマンス系の本の表紙にも改革が必要なのでは…。
読了日:04月23日 著者:エラ・クイン
永遠のファシズム (岩波現代文庫)永遠のファシズム (岩波現代文庫)感想
ウンベルト・エーコの政治的・社会的発言集。湾岸戦争、ネオナチの台頭、難民問題など、執筆当時の時事問題を取り上げつつ、ファシズムの危険性を説き、メディアのかかえる問題を指摘し、知識人の有り様などを取り上げた、論文や講演録が5篇収録されている。手にとっては見たものの、数ページめくって、やっぱりエーコは小難しくて、とても読み切れそうにないとあきらめかけた。ところがふと思いついて声に出して読んでみると、これが意外といけてびっくり!?
読了日:04月23日 著者:ウンベルト・エーコ
ほんやく日和 19-20世紀女性作家作品集 vol.3ほんやく日和 19-20世紀女性作家作品集 vol.3感想
関西圏で活動する翻訳者が集まって結成された『同人倶楽部 ほんやく日和』による同人誌の第3弾。すっかりお馴染みになった面々による翻訳で、全部で7作が収録された短篇集だが、3冊続けて読んでも飽きがきそうにないぐらいバラエティに富んでいる。そしてもし3冊続けて読んだなら、訳者の腕がぐんぐんあがっていることが、実感できるに違いない。
読了日:04月22日 著者:同人倶楽部 ほんやく日和
妻に恋した放蕩伯爵 (ラズベリーブックス)妻に恋した放蕩伯爵 (ラズベリーブックス)感想
またもやKindle Unlimitedの期間限定キャンペーンに手を出してしまった。
読了日:04月22日 著者:キャリー・ハットン
山羊と水葬山羊と水葬感想
翻訳家であり、詩人であるくぼたのぞみさんのエッセイ集なのだが、読み心地はまるで一篇の長編小説のよう。母から娘へ、著者から読者へ、確実に引き継がれていくもの、引き継がれる度に補強され補完されていくものが確かにある。そのことを思うと、郷愁とともに、安心にも似たあたたかな気持ちが心に広がっていく。
読了日:04月21日 著者:くぼたのぞみ
春 (新潮クレスト・ブックス)春 (新潮クレスト・ブックス)感想
『秋』、『冬』につづく、四季四部作の三作目、待望の『春』。この物語の魅力を、私は今回もまた上手く説明することが出来ない。けれども、とても好きなのだ。四部作全てを読み通し、さらには全て通して読み返さなければならないと、固く心に誓わずにはいられないほどに。
読了日:04月19日 著者:アリ・スミス
世界からバナナがなくなるまえに: 食糧危機に立ち向かう科学者たち世界からバナナがなくなるまえに: 食糧危機に立ち向かう科学者たち感想
農業が画一化されると、栽培作物は天敵などに対してきわめて脆弱になってしまう。本書はそのことに警笛をならしているのだが、それは同時に、利益優先の大規模農業に対する警笛でもある。そうではあるのだけれど、アイルランドがなぜジャガイモ飢餓に陥ったのか、キャッサバの被害はどのようにして広がったのかなど、歴史や慣習にまつわるあれこれが非常に興味ぶかく思わず読みふけってしまった。
読了日:04月18日 著者:ロブ・ダン
[ヴィジュアル版]歴史を動かした重要文書:ハムラビ法典から宇宙の地図まで[ヴィジュアル版]歴史を動かした重要文書:ハムラビ法典から宇宙の地図まで感想
図版が豊富でなかなか見応えのある1冊だった。
読了日:04月15日 著者:ピーター・スノウ,アン・マクミラン
少女が見た1945年のベルリン ――ナチス政権崩壊から敗戦、そして復興へ (フェニックスシリーズ No. 132 graphic novel)少女が見た1945年のベルリン ――ナチス政権崩壊から敗戦、そして復興へ (フェニックスシリーズ No. 132 graphic novel)感想
書評サイト本が好き!を通じての頂き物。クラウスゴルドンのベルリン三部作の最終章、『 ベルリン1945』を原作とし、第二次世界大戦末期から終戦直後にかけての荒廃したベルリンを、一人の少女の目を通して描くグラフィックノベル。大人たちのそれぞれの食い違う言い分ですら、ありのまま見つめつづけるしかない、少女の視点がいきている。クラウスゴルドンを知らない方にこそお薦めしたい作品。
読了日:04月14日 著者:クラウス・コルドン,ゲルリンデ・アルトホフ,クリストフ・ホイヤー
きんいろのしか バングラデシュの昔話 (日本傑作絵本シリーズ)きんいろのしか バングラデシュの昔話 (日本傑作絵本シリーズ)感想
#福音館70周年 のお祝い読書会に参加すべく、昔懐かしい絵本を読んでみた。インドに魅せられた日本画家、秋野不矩さんの絵が本当に素敵。不思議な響きの「まんごうのみ」の正体を、昔の私に教えてあげたいw
読了日:04月13日 著者:アーメド ジャラール
生まれつき翻訳: 世界文学時代の現代小説生まれつき翻訳: 世界文学時代の現代小説感想
レベッカ・L・ウォルコウィッツの『生まれつき翻訳--世界文学時代の現代小説』(2015)の日本語版。「邦訳」ではなく「日本語版」であることが“味噌”で、その意味はこの本を読んでいくとだんだんと分かっていくようになる。難解な部分もあったがとにかく面白かった。どんなところが面白かったかは↓で。
読了日:04月11日 著者:レベッカ・L・ウォルコウィッツ
ぼくはただ、物語を書きたかった。ぼくはただ、物語を書きたかった。感想
シリアからの亡命作家ラフィク・シャミが2017年にドイツで出版した自伝的エッセイの翻訳版。 1971年3月、3分の1がぎっしり書き込まれたノートで占められているスーツケースを持って、作家はフランクフルトの空港に降り立った。もう二度と祖国には戻れないと覚悟して。 一つ一つの文章は短く、難しい言い回しもないが、とても読み応えがあって、あれこれ考えずにはいられない、素晴らしいエッセイ集だった。
読了日:04月07日 著者:ラフィク・シャミ
ぼくたちに翼があったころ (世界傑作童話シリーズ)ぼくたちに翼があったころ (世界傑作童話シリーズ)感想
ヤヌシュ・コルチャック(Janusz Korczak)は、ユダヤポーランド人。小児科医で児童文学作家で教育者であり、ユダヤ人の孤児たちのための孤児院の院長をつとめ、著作と実践の両面から、子どもの権利を全面に打ち出した児童教育に取り組んだ人。自らは助かるチャンスがあったにもかかわらず、200名もの子どもたちと共にトレブリンカ収容所に向かった人。このヘブライ語で書かれたYA小説、副題に「コルチャック先生と107人の子どもたち」とあったので、この本にはきっとそういういきさつが書いてあるのだろうと思っていたが…
読了日:04月06日 著者:タミ・シェム=トヴ
「その他の外国文学」の翻訳者「その他の外国文学」の翻訳者感想
面白かった!面白かったけれど、またまた読みたい本がどっさり増えてしまって、もうどうしたらいいのやら!?うれしい悲鳴を上げてしまった。それにしても、「マイナー言語」の辞書や教材の不足を補うための皆さんの苦労といったら、いつも楽しませて貰っている読者としては、ただただ感謝。
読了日:04月04日 著者: 
甦れ、わがロシアよ―私なりの改革への提言甦れ、わがロシアよ―私なりの改革への提言感想
「私自身、半分近くはウクライナ人であり、子どもの頃はウクライナ語の響きのなかで育った。一方、悲壮さにみちた白ロシアで、私は戦争体験の大半を過ごし、その悲しい貧しさと柔和な民族性を心から愛したものだ。」というソルジェニーツィンが1990年に書いたこの本、何度も読んでいるはずなのに、なぜだかその都度驚いてしまう。ある意味予言の書のような?いやいや、私が認識していなかっただけで、あれこれの火種も問題もずっとそこにあったんだよね。
読了日:04月03日 著者:アレクサンドル ソルジェニーツィン
私が本からもらったもの 翻訳者の読書論私が本からもらったもの 翻訳者の読書論感想
光文社古典新訳文庫」の創刊編集長の駒井稔氏を聞き手に、8人の翻訳者が本にまつわる数々の思い出を語った「WATERRAS BOOK FES」の「翻訳者×駒井稔による台本のないラジオ」。面白そうな企画だとは思いつつも、若い頃耳の病気をしたせいか、どうも耳で聞くのが苦手なもので視聴を諦めた企画が、書籍化されるときいて楽しみにしていた。本書には8つの対談の他に、ロシア文学貝澤哉氏による「最も原始的なタイムマシン、あるいは書物の危険な匂い」とフランス文学の永田千奈氏による「本箱の家」の2つのエッセイも収録。
読了日:04月02日 著者:駒井稔,鈴木芳子,貝澤哉,永田千奈,木村政則,土屋京子,高遠弘美,酒寄進一,蜂飼耳

読書メーター

『サリー・ジョーンズの伝説』

 

物語は今から100年前、熱帯の嵐の夜にはじまる。曽野と、アフリカの熱帯雨林の奥深くでゴリラの女の子が生まれた。月はもちろん、星ひとつまたたかない真っ暗な夜のことだった。それゆえ村の長老は、生まれた子が数々の不幸にみまわれるだろうと、予言した。


こんな書き出しで始まるのは、スウェーデンの作家がゴリラの半生を描いた絵本だ。

お母さんの背中におぶさって移動していたほど幼いころに、密猟者によってとらえられ、競りにかけられたその子は、トルコの象牙商人に買われるのだが、関税の支払いをけちったその商人は、その子を乳母車にいれ、生まれたばかりの赤ん坊に見せかけてヨーロッパ行きの客船に乗せたのだった。
偽造パスポートにはジャングルで行方不明になったアイルランド人宣教師夫婦の娘、サリー・ジョーンズと記されていた。

それから彼女がたどる運命ときたら……。


一日中遊んでくれる動物愛好家の女性に引き取られて、幸せに暮らしていたかと思いきや…。
どんな場所に隠されたバナナでも見つけられるようになると、遊びはどんどん難しさを増し、やがて鍵のかかった引き出しの中や、警報器付きの金庫の中の……!?


世間を騒がせた“空飛ぶ泥棒”の嫌疑をかけられ、動物園に送られることになったサリー。
今度はホームシックのオランウータン・ババと心を通わせるようになるも、やがて二人は引き離されて……。

サーカスに入ったこともある。
密航をしたことも、船員として働いたこともあるし、バーの客寄せに店頭につながれたことも。

世界各地を渡り歩くサリーの人生には、本当につらいことがたくさんあって、希望を捨ててしまった時期もあったけれど、でも時々ほんのちょっぴり、誰かと心を通わせられることもあって、そういう良い思い出をサリーは心の隅にしっかり貯めておくことができて…。

フィクションの世界にすっかり取り込まれて、こんなに苦労したのだから、なんとしても幸せになってほしい…そう思いながら、ページをめくる。



よかったね。サリー。本当に。
読者もゆっくり手を振って、安心して本をとじることができる。

『ファシズムとロシア』

 

図書館の新着棚で見つけた本。
邦題に目を惹かれて手に取ったところ、よく見ると薄く“Is Russia Fascist?”の文字が。

原題は“Is Russia Fascist?: Unraveling Propaganda East and West”
2021年に書かれた比較的新しい本だ。

連日のウクライナ関連報道をみていると、「ロシアはファシズム国家か?」と問われれば、肯定する人も多いのではないかと思う。
欧米では、しばらく前からそう論じられる傾向にあったはず。

フランス出身の国際政治・政治思想研究者で、ジョージ・ワシントン大学ヨーロッパ・ロシア・ユーラシア研究所所長、同大学の教授でもある著者が、なぜ今そうした問いをたてるのか?
そしてその問いにどう答えるのか知りたくなってページをめくる。

書誌情報に転載した目次をみてもえばわかると思うが、著者は、安易なレッテル貼りに異を唱えた上で、ファシズムに関わる要素を丁寧に検討しながら、ロシアの体制と現状を分析するというスタンスをとっている。

とても考えさせられる為になる本ではあったが、今の私の力量では、書評を書き上げることが出来そうにない。
せめて、この先様々な問題を考え続けるために、沢山とったメモの中から、特に心に残った点を書き出しておきたい。


ジョージ・オーウェルの『政治と英語』(1946年)は未読だが、本書によればオーウェルはその中でファシズムは今や「望ましくないもの」を意味する以外において何の意味も持たないと述べているという。(p26)

“ロシアをファシストに分類することはしばしば、ロシアを西側にとっての他者とし、「我々」にとって望ましくないものすべてを体現させるという単純な役割を果たす”と著者は言う。

そもそも“ファシズム”とはなにか。
この本では“ファシズムを、暴力的な手段によって再構築された、古来の価値に基づく新たな世界を創造することで、近代を徹底的に破壊することを呼びかける、メタ政治的イデオロギー”と定義する。(p39)

ウンベルト・エーコは、『永遠のファシズム(1995年)の中で、“ナチズムには一つの形態しかないが、異なる組み合わせでいくつかの特徴を混在させる多彩なファシズムがある”と指摘している。
著者はこのエーコが提案した「原初ファシズム」の14の類型を評価しつつも、そこには二つの問題が残されるという。
その一つは、このうちいくつの特徴を備えていれば、その政治体制がファシズムとみなされるのか?という点。
今ひとつは、ファシズムの持つ特徴のいくつかが、非ファシズム体制の中にも、いわゆる「確立された民主主義」の中にも存在するという事実を、どう概念化すれば良いのか?という点だ。

差異への恐怖、陰謀論、選択的ポピュリズム、マチズモ…こうしたものはなにもファシズムに限定されるものではない。
もしもファシズムを規定する特徴のいくつかが、「民主主義」に連なる体制にもあったならば、誰が、どこで、どうやって、境界線を引くのか?どこからがファシズムなのか?と問うのである。

リベラルの正当性を否定するものは誰であれファシストだと非難する行為は、空前の規模に拡大してきたと著者は指摘する。(p50)

政敵にレッテルを貼り、ファシズムだと糾弾することで相手国のブランドを失墜させることは、国際政治における他国をおとしめる行為の台頭という、より大きな潮流に含まれる。(p51)

持ち出されるのは「ヒトラーにたとえる論証」(1951年/レオ・シュトラウス)だ。
相手の主張の内容よりも相手の人格を攻撃することで反駁する議論の方法、人格攻撃法のカテゴリーに属する。
つながりによる罪、つまり、見解や行動がヒトラーやナチ体制を連想させるものに似ているとされることを根拠にする。
ヒトラーにたとえる論証」の説得力には二重の機能がある。まず、論駁を最も血塗られたイデオロギーと結びつけて中傷し、攻撃する側のものをナチズムと戦う者、あるいはその犠牲者と措定する。攻撃する者の道徳的優位性を確たる者にするために、強力な歴史的参照を用いるのである。(p52)

なにが「善」であるかを共通認識にするのは難しいが、普遍的な「悪」が何かを定めることは、ナチの暴力の記憶を通じて可能であり続けているというわけだ。

我々が現在目にしている「ファシズム」という用語の濫用が、我々の社会の構造的変化を説明するどころか、見えづらくしてしまっているというのが著者の主張でもある。(p53)

こうした指摘は非常に興味深い。


これだけでも読んだ甲斐があったと思っていたのだが、衝撃はまだこの先に待ち構えていた。

記憶のヨーロッパ化は、法のヨーロッパ化よりもはるかに達成困難だ(p125)
第4章の「記憶をめぐる戦争」は必読だ。

第二次世界大戦中、共にファシズムに抵抗したことは、鉄のカーテンの両側の数少ない共通項だった。

戦争の暴虐とホロコーストの恐怖はドイツだけの罪とされ、ヨーロッパ全土に存在したナチの協力者や、モスクワの支配下にあった領域で行われたソ連の暴力行為を脇に置くことで、カーテンの両側から単一の敵を非難することに集中できたのだ。

けれども、西欧とソヴィエト・ロシアが共有したこの従来型の歴史観は、自分たちはナチからソ連支配下に受け渡されたと考えてきた中・東欧の「新しいヨーロッパの国々」の目には、真実を覆い隠すものと映る。

EUの仲間入りをしようとするこれらの国々は、ロシアに対し、賠償や償いの政策立案、真実究明や公文書公開を求めている。

中・東欧の新たな公的記憶が、ソ連をナチ・ドイツと同等の脅威に格上げしたように、彼らの憎悪に燃えた反ソ主義は、ナチ体制との協力者として地元当局や住民がホロコーストで果たした役割を減じるというスタンスをも生み出している。

例えば、ポーランドでは、2018年、ポーランド国民がホロコーストに加担したと主張する、あるいはナチの絶滅収容所を「ポーランドのもの」と描写する者には禁固刑を科すという新しい法律を施行した。

同じ傾向は、反ソレジスタンス運動の解釈にも見て取れる。
しばしばドイツ軍の制服をきて行われたこうした活動が、だんだんと「自由の戦士」として記憶されるようになってきているというのだ。

エストニアでは元ナチの協力者たちが毎年、SSの制服を着て、彼らの行動を記念するパレードを行っているという。

そしてウクライナでは……。


こうした一連の動きも、ロシアの側から見れば「ヤルタ体制」を否定する歴史修正主義に見えることだろう。
そしてそれはとりもなおさず、ファシズムに対する勝利者として保証されたはずの国際社会におけるロシアの地位を脅かすものに他ならないとも。


今起きている出来事の発端が「記憶をめぐる戦争」であるとするならば、いったいどこに帰着点を求めればいいのだろうか。

山ほどのメモをとりながら、本を読み終えたあとも、途方に暮れる。

それでも…と、私は考え続ける。

ロシアの行為を正当化するつもりは毛頭ないが、未来のためには、マスコミが煽り、世論がなびいているように、狂気にとらわれたファシストによる蛮行だ決めつける見方よりも、本書が指し示しているような、理解することを諦めない知性の方が求められるべきではなかろうと。

 

 

 

『永遠のファシズム』

 

ウンベルト・エーコの政治的・社会的発言集。
湾岸戦争、ネオナチの台頭、難民問題など、執筆当時の時事問題を取り上げつつ、ファシズムの危険性を説き、メディアのかかえる問題を指摘し、知識人の有り様などを取り上げた、論文や講演録が5篇収録されている。

1991年湾岸戦争のさなか「リヴィスタ・ディ・ルーブル」誌に掲載された「戦争を考える」
クライゼヴィッツフーコーモラヴィアカルヴィーノを引き合いに出して、イタリア知識人層の受け止めについて展開する。

1995年4月にニューヨークのコロンビア大学で、学生・教職員を前に行った講演原稿を元に推敲された「永遠のファシズム
「原ファシズム(Ur-Fascismo)」を見極める14の典型的特徴をあげて、原ファシズムは、私たちのまわりに、今も何げない装いでいるものだと説く。
この「原ファシズムの定義」は、 これ以降に出版された多くの書物にも引用されるなど、社会に与えた影響も大きい。
(かくいう私も、実のところ、他の本を読んでいたらこの「原ファシズム」に行き当たり、そういえば読んでいないな…とこの本を、家族の本棚から借り出してきたのだった。)

「新聞について」は、1995年、イタリア上院主催の連続セミナーの一環として。上院議員と主要新聞の編集長を前に発表した報告だというのだが……。
一読者である私でさえ、耳が痛いことばかりなのに、議員も新聞社の面々も、よく平気な顔をして聞いていられたものだ……というか、途中で怒り出したりはしないのか?やっぱりエーコだから?

「他人が登場するとき」は1996年マルティー大司教への書簡で、「移住・寛容そして堪えがたいもの」は、1997年に行われた学会の報告に、同年の別のフォーラムでの講演録と新聞掲載論文を合わせてまとめたもの。


手にとっては見たものの、数ページめくって、やっぱりエーコは小難しくて、とても読み切れそうにないとあきらめかけた。
ところがふと思いついて声に出して読んでみると、これが意外といける。
腑に落ちないところもそれなりに、ここはきっと笑いを取りにきているなというところも、だんだんわかるようになり、リズムをつかめば、あとは黙読でも読み進めることができた。

『ほんやく日和 vol.3』

 

関西圏で活動する翻訳者が集まって結成された『同人倶楽部 ほんやく日和』による同人誌の第3弾。

 

これまで同様、19世紀~20世紀にかけて活動していた女性作家の短編を集めた翻訳アンソロジーだ。

 

巻頭を飾るのは、安心安定の面白さ、やまもとみきさん翻訳のイーディス・ブラウン・カークウッド文&M・T・ロス絵『動物の子ども図鑑 その三』
今回のお気に入りはアルパカのお嬢さん♪
マンドリルってどんな子だっけ?となどと調べてみるのもお約束だ。

 

続いて登場するのもやまもとみきさんの翻訳で、ローラ・E・リチャーズの『ジョニーの砂場』
てっきり子どもたちのお話かと思いきや、ジョニー少年の砂場で戯れるのはなんと5匹の猫!

 

「いやちょっとそれはないでしょ!」と主役を相手に膝詰めで説教したくてイライラしたのは、小谷祐子さん翻訳のメイ・バイロン『知りたがりやのロビンの冒険』
落としどころはまずまずで、これってもしや、男親の方が親としての自覚を持つのが遅いとかいう話だったのかも!?

 

モンゴメリー『キャロラインおばさんのドレス』は、早くに両親を亡くした貧しい姉妹の物語。
岡本明子さんは前回、前々回もモンゴメリーの作品を訳されていたけれど、回を増す毎に私にもだんだんその魅力がわかるようになってきた気が。

 

ドーラ・シガーソン・ショーター作『転生』は井上舞さんの翻訳。
こういう作品はいったいどこから見つけてくるのか?と思うぐらいゾクゾクする。
夢オチ?夢オチだよね?と願うような気持ちで読み続けると……。
いや~!!これ、めちゃめちゃ怖かった!!

 

まえだようこさんが訳すのはイーディス・ウォートン作『ミス・メアリ・パスク』
これもまたホラーなの!?
怖いの苦手なのよねえ!といいながら、指の隙間からのぞき込むも、次第に前のめりに!?
気がつけば食い入るように読み進め……ところがどっこい!まさかのオチで!!
えーこれはこれでやっぱり怖い。
しかしブルターニュ東尋坊って!?作者作品解説も油断ならない。

 

トリは朝賀雅子さんの翻訳でアンナ・キャサリン・グリーン作『忘れられない夜』
謎は謎のまま!?いいのかそれで!?
でもこういうの嫌いじゃない。
背景にはいったいなにがあったのか、いろいろ想像してしまう。

 

「ほんやく日和」3冊目。
すっかりお馴染みになった面々による翻訳で、全部で7作が収録された短篇集だが、3冊続けて読んでも飽きがきそうにないぐらいバラエティに富んでいる。
そしてもし3冊続けて読んだなら、訳者の腕がぐんぐんあがっていることが、実感できるに違いない。

『山羊と水葬』

 

山羊と水葬

山羊と水葬

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北海道に生まれて育った偶然を「運命」と読んでいいのかどうか、わからないまま東京に移り住んで長い時間が過ぎたという著者が、三人称を用いて語るのは、北の大地で育った子ども時代、ジャズに魅せられた青春時代、アフリカに寄せる想い、詩のこと、クッツェーのこと、アディーチェのこと。

この本は間違いなく、翻訳家であり、詩人であるくぼたのぞみさんのエッセイ集なのだが、読み心地はまるで一篇の長編小説のよう。

浮かんでくるのは北の大地をいきいきと駆け回るするどい観察眼をもつ女の子と、戦後の新開地の農村にあって、周囲の男尊女卑の風潮に抗って、家庭内では息子も娘も平等に育てると固く決意して信念を貫いた母の姿。

 J・M・クッツェーの『少年時代』の最初の章に、少年の母親が「この家の囚人になんかならない」「わたしは自由になる」といって自転車を手に入れる話が出てくる。田舎町に引っ越した一家には自動車はなかった。あれは一九四八年ころのアフリカ大陸南端の話だった。この作品を読むと、当時、自転車に乗れるとは「移動の自由」を手に入れることでもあったとわかる。
 カリブ海に浮かぶグアドループという島で裕福な黒人家庭に育って作家になったマリーズ・コンデも、少女時代に自転車を手に入れたときに喜びを書いている。回想記『心は泣いたり笑ったり』に、それは十五歳のときとあったから一九五〇年前後のことだろう。
 東アジアの列島北端の旧植民地で、少女の母親が自転車に乗りはじめたのはそれより少しあとになるだろうか。それでも、アメリカ仕込みのキリスト教的開拓精神に富んだ母親が、さっそうと自転車に乗りはじめたのは、看護婦として再び働くようになるずっと前で、周囲の農家の女性たちよりずいぶん早かった。
  (「怪我はもっぱら自転車が」)


そしてまた、七歳の時に自転車を手に入れた少女にとっても自転車は、単なる移動手段というだけでなく“遠隔の地に「閉じこめられないこと」を体感するシンボル”になっていくのだ。

母から娘へ、人から人へ、著者から読者へと、確実に引き継がれていくもの。

ただ引き継がれていくだけでなく、引き継がれる度に補強され補完されていくものが確かにある。
そのことを思うと、こみ上げてくる郷愁とともに、安心にも似たあたたかな気持ちが心に広がっていく。

 

『春』

 

『秋』『冬』につづく、四季四部作の三作目、待望の『春』だ。

凍てつく大地を突き破って、いの一番に顔を出すクロッカスの新芽。
初々しい緑を見つけて喜ぶのはつかの間、よく見れば周りには、雪に埋もれていたゴミが散乱していたりする。
そんな春。


あなたは、キャサリンマンスフィールドリルケが、ほぼ同じ時期にスイスにいたことを知っていたか。
それはつまり、ベラ・パウエルの『四月』という小説を映像化する話なのだ。
そう言われて原作を読んでみたら、絵はがきをモチーフにして、こんな風に…と、色々なイメージが湧いてくる。だが、彼とでは撮れない。
あのコメディーみたいなセックスシーンばかりを入れたがる脚本家とは。
彼女とならば、良い作品が撮れたかもしれないが…。
そう、テレビ映画監督リチャードは、長年の相棒だった脚本家のパディーの死に打ちのめされているのだ。
そんなわけで…と、いう説明で彼自身が納得するかどうかはわからないが、老人は一人、スコットランド北部にある小さな駅にたたずんでいる。

その同じ駅に降り立つ、少女と若い女

移民収容施設で働きながら、これは仕事と割り切っているつもりで、割り切れない、複雑な想いを抱えているその若い女性は、通勤途中に出会った少女に惹きつけられて、同じ列車に乗り込んできた。

不思議な力を持つ少女。

現実離れした奇妙な出来事。

だが、考えてみれば、移民収容施設の中で日々繰り広げられている、悲惨なあれこれもまた、ありえないほど「現実離れ」した悲惨さで。

EU離脱に揺れ、移民排斥が進むイギリスという、一見堅苦しいテーマを、山ほどの悪態と、作中作にアート作品、人間くさいあれこれに、浮き世離れしたあれこれを加え、軽妙で饒舌で、一見すると読む者を煙に巻くかのような語り口でありながら、そのじつ心の臓をぐさりと突き刺すように鋭く語りあげる。

この物語の魅力を、私は今回もまた上手く説明することが出来ない。

けれども、とても好きなのだ。
なにがなんでも四部作全てを読み通し、さらには全て通して読み返さなければならないと、固く心に誓わずにはいられないほどに。