かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

女であるだけで(新しいマヤの文学)

 

 夫殺しの罪に問われて禁固20年の判決をうけ収監されていたオノリーナは、恩赦を求める世論の高まりを受け、放免されることになった。

だが、彼女にとって刑務所を後にすることは、普通に生きることさえ困難な生活に戻ることを意味していた。
すなわちそれは、食べる物もなく、遠い井戸まで水を汲みに行き、子どもたちが泣きわめくのに耐え、まっとうな方法で日々の生活費を稼ぐために、なにかしら仕事を見つけなくてはならないということだ。

もっとも以前と違って、心配しなくてもいいことが一つだけあった。
もう二度と夫・フロレンシオから、叩かれたり、殴られたり、さらには様々な屈辱を受けたりすることはないのだから。

オノリーナにとって刑務所は、生まれて初めて読み書きを真剣に学ぶ場となった。
入所したとき、彼女は字が読めなかった。
スペイン語に関して言えば、商売をするのに必要な単語を知っているだけだった。
だが5年の間に彼女は、他人の書いた字を読むことができ、簡単なやりとりなら流暢にスペイン語を話せるようにすらなったのだ。
それは同時に、オノリーナが、自分には苗字と名前があり、人間は沢山いても自分は唯一の人間であるということ、自分自身の存在にも価値があるのだということを知るにたる時間でもあった。

釈放後にもたれた記者会見で、「あなたと同じ罪で服役している人は沢山いるのに、あなただけが先住民だというだけで自由の身になったことについてどう思うか」という記者のぶしつけな質問に、オノリーナは応える。

「あんたの言い方だと、あたしは法に借りがあることになる。あんたが言っているのは、あたしはインディオだから釈放されるってことだろ。だけど、あんたが言っていることは、間違っているよ。だって、あんたの言う法はずっと眠ったままじゃないか。あたしは望みもしないのに、あたしの父さんがあたしを四〇〇ペソと一足の靴、それに金のネックレス一本と引き替えに売り飛ばしたとき、あんたの言う法なんてそもそも存在しなかったんだ。」


もちろんそうだ。そしてその後、彼女を買ったフロレンシオから、毎日のように殴る蹴るの暴行をうけたときも、彼の同僚や友人たちに性行為の相手として貸し出されたときも、法律は彼女を守ってはくれなかった。

あたしが自由になれたのは、あたしがインディオだからなんかじゃない。
このフレーズに続くオノリーナの答えが、物語を読みながらオノリーナの境遇に胸を痛めている気になっていた私の心にも突き刺さる。

「女であるだけで」甘んじなければならなかったオノリーナの境遇に、新米弁護士のデリアをはじめ、階級も生まれ育った環境も全く違う女たちが同情を寄せ、親身になろうとするのは彼女たちもまた程度の差こそあれ「女であるだけで」味わってきた苦い経験があるからだ。

だが同時にそれは、オノリーナが鋭く指摘するように、個々人が自覚しているかどうかは別として、自分たちが抱く罪の意識を軽くするための手段でもある。

そう、この物語に描かれているのは女であるがゆえのあれこれだけではない。
オノリーナについても、そして彼女を激しく虐げてきた夫・フロレンシオについても、先住民族であるがゆえの貧困や差別と切り離して語ることはできないのだから。

訳者解説によれば、作者のソル・ケー・モオは、ユカタン・マヤ語の話者で、彼女の小説はユカタン・マヤ語で書かれ、彼女自身の手によって、スペイン語に翻訳されているのだという。
「マヤの伝統について語ることは自分の役目ではない」と断言しているという彼女の作品は、マヤ先住民の新しい文学と位置づけられていくことだろう。

ソル・ケー・モオは、これまでいくつもの先住民文学を対象にした文学賞を受賞しているが、自らハードルを次第にあげてきているそうで、最終的にはノーベル賞を取ることをに目標に掲げていると公言しているのだという。
訳者が言及しているとおり、まず間違いなくそう遠くない時期にスペイン語圏の文学賞にその頭角をあらわしてくることだろう。
その意味からも文学賞好きは要チェックだ。

そしてまたこの本は、文学に社会を変える力があると信じるあなたにとっても必読書といえるだろう。

                   (2020.3.24 本が好き!投稿)