あの頃、おじいさんたちが話してくれる昔話や小話を聞くのが、ぼくたち子供にとって楽しい時間の過ごし方だった。
物語はそんな回想から語り起こされる。
ある日“ぼく”は、大人達の中でもとりわけ話が上手かった“ぼく”のお母さんのお父さんであるグレゴリオおじいさんにたずねる。ねえ、おじいさん、おじいさんはたくさんのお話を知ってるけど、それ、どこから出てくるの?どうやったら、全部違う話になるの?それ、誰に教えてもらったの?
するとおじいさんは応えるのだ。お話は誰のものでもない、みんなのものじゃ。わしはわしのじいさんから聞いたし、そのじいさんはそのじいさんから聞いた。そんな具合にみんな自分のじいさんから教えてもらったんじゃ
お前たちの誰か一人にお話を覚えるという大切な仕事を引き受けてもらいたい。そしていずれはそれを文字にしてもらいたい。
そういうとおじいさんは孫たちにトウモロコシの種のくじをひかせた。
一人だけ色の違う種を引き当てた“ぼく”は、おじいさんと共に多くの時間を過ごし、様々なことを教えてもらうことになるのだった。
「ねえ、おじいさん、花って何なの?」
「雲は何?」「蝉は?」「トンボは?」
「おじいさん、ぼくって誰なの?」
“ぼく”の口から次々と繰り出される質問に、おじいさんは面倒くさがりもせず、丁寧に答えていく。
その答えの一つ一つに詩があり、物語がある。
本書は2012年にメキシコで児童図書として出版された『マヤの賢人グレゴリオおじいさん』の全訳だ。
物語の最終盤“ぼく”は高らかに語りあげる。
<カー・シーヒル・ターン>は「言葉が蘇る」「声が生き返る」ことを意味するマヤ語だ。
ぼくたちが言葉として語り続けることによって現実であり続けるのだと。
なるほどこれは、おじいさんから受け継いだマヤの伝承と、その中に息づくマヤの人々の人生観を描いた物語であると同時に、語り部としての“ぼく”の成長を描いた物語にもなっていたのか。
そう勝手に合点して物語を読み終えた後、訳者あとがきを読み始めたら、私たち読者が陥りがちな、“エキゾチックで魔術的であるだけで、それが先住民古来の正真正銘の伝統なのだと勝手に思ってしまう”という点についての鋭い指摘をはじめ、目から鱗をボロボロ落とすことに!
この不思議な物語を堪能することはもちろんのこと、示唆に富んだこの訳者あとがきを多くの人に読んでみてもらいたい。
北海道にウポポイ(民族共生象徴空間)がオープンしたというニュースを聞きながら、改めて思った。