かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『時間』

 

時間

時間

 

 久々にエンデの 『モモ』を読んだので、その勢いで気になっていたエヴァ・ホフマンの新刊を読み始めた。もちろん時間つながり!!

エヴァ・ホフマンといえば、ポーランド生まれのユダヤ人、ホロコースト第二世代などと紹介されることが多いと思うが、私にとっては『アメリカに生きる私(わたし)―二つの言語、二つの文化の間で』の著者、これにつきる。

そのエヴァ・ホフマンの著作で、書名が『時間』とくれば、記憶と歴史をめぐる文学的なエッセイに違いないと勝手に思い込んではりきってページをめくり始める。

ところがこの本は、当初思っていた以上に難解で、哲学や生物学、神経科学や人類学など、古典を紐解き、最新の学説にも言及して「時間とは何か」、その神髄に迫ろうという本だった。

専門用語も多く、正直どれほど理解できたかどうかわからないが、それでも引用されている古今東西様々な「時間」の概念は興味深く、あれこれと考えさせられる。

とりわけ

歴史や文学には、不眠にまつわる逸話や、眠らないヒーローに事欠かない。
マクベスは罪をおかしたために「眠りを殺し」、プルーストは母親がおやすみなさいのキスをしに来てくれるまでベッドの中で震えながら寝ずに待ち、ナボコフは睡眠を誰もが平等主義的無感覚に陥る「最も愚かな友愛」と断じた。(p29)

といった、ところどころで紹介されている文学の中の「時間」についての考察は面白い。

“睡眠が違法とされる一方で、お金を貰って眠りにつき、他の人々に夢を鑑賞させる者もいるという”というジャネット・ウィンターソンのディストピア短編小説を読んでみたいし、ボーヴォワールの『人はすべて死す』、ジュリアン・バーンズの『Nothing to Be Frightened Of』も気になる。

こうした派生読書に繋がりそうなメモのほか、これはと思った箇所をあれこれと抜き書きすると、メモだけで膨大になる。

どんな瞬間の知覚にも「過去把持」(ちょうど過ぎ去ったこと)と「未来予持」(起こりそうなこと)の要素がつねに存在する。「現在」は、直近の過去と直近の未来の連続から無理に取り出すことはできない。

現象学で知られるエトムント・フッサールがそう言っていたと紹介されれば、なるほど確かに!と思いはするが、自分の言葉で説明してみようとするとこれがなかなか難しい。

誰もわたしに問わなければ、わたしは知っていると思いこんでいる。しかし、誰かに問われて説明しようとすると、わたしは知らないと答えるほかないというアウグスティヌスの言葉に、思わずうなる。

けれども、私が「時間」ついてあれこれと考えているこの瞬間にも、時は加速し続けていて、人びとは“すべての瞬間に最大限の価値を求め、搾り取ろう”ともがいている。

科学技術の進歩、デジタルテクノロジーの進化は、人間の様々な営みに効率化をもたらすが、より加速し、詰め込まれた「時間」はこの先いったいどうなっていくのだろうか。

時間を相手に私たちが結ぼうとしているファウスト的な契約の代償は、最も皮肉な結果をもたらすだろう。

エヴァ・ホフマンの鳴らす警笛に耳を傾けながら、本を閉じた後も私はまだ「時間」について考えている。