かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

砂漠が街に入りこんだ日

 

砂漠が街に入りこんだ日

砂漠が街に入りこんだ日

 

 勤め先のマクドナルドに向かうのはやめて、バスに乗ってルオエスにあるという砂漠を探しにいくことにした一人の女性。
バスの中でも、人の多い駅のコンコースでも、メトロに乗ってみても、渋滞する車の列を脇目に乱立するビルを見上げたときでさえ、周囲の喧噪とは無縁であるかのように彼女の周り、そこだけが妙に静かで、どんなに人混みに紛れていても彼女だけが浮かび上がってくるような……。
文字を追っているとそんな映像が目に浮かんでくる。

本を読んでいるときに、物語の場面が頭に浮かぶ気がすることはよくあるけれど、ファンタジーでもラノベでもなくどちらかというと純文学的な作品に、スローテンポのコマ送りとはいえ、アニメーション的な二次元の画像が浮かんでくるのはめずらしい。


目覚めと同時にベッドの中で携帯の画面に見入る女性も、テニスコートを走り回る同級生を見つめる女の子も、一日中イヤホンをつけたままの少女も、塔の上に住み着いたホームレスの男性も、周囲の喧噪の中から浮き上がるように、どういうわけか彼らの周りだけがシンとしている。そんなイメージ。
決して音が届かないわけではない。
騒がしい音が聞こえるからこそ、その音との距離を感じてしまうのだ。

そういえば、この本からは匂いがしない。
なぜだろう。
マクドナルドのハンバーガーからも、メトロの車内からも、場末の掃きだめの匂いもしてこなかった。


物語の舞台は架空の都市“LUOES(ルオエス)”。
“SEOUL(ソウル)”の綴りを逆さにした名前だ。

この小説は、作家が母語である韓国語ではなく、本人曰く「ずいぶん年を取ってから習得した」フランス語で執筆したものだと聞いていた。

そう聞いていたから、読み始める前は、 アゴタ・クリストフの『文盲』のように言葉との格闘か、 エヴァ・ホフマンの『アメリカに生きる私』のように望郷の念が描かれているのだろうか、あるいはジュンパ・ラヒリの『べつの言葉で』のように新しい言語に恋をした作家によるものなのかもしれないなどと、あれこれと想像し予測をたてていたのだが、実際と読んでみるとそのどれにも似ておらず、それらのどの作品よりも静けさが気になる物語だった。

もしかすると人は喧噪の中にいればいるほど、寂しくなるときがあるのかもしれない。

“荷物をまとめようとしていたら、突然、何か重要なものをなくした気持ちに襲われるも、それが何なのかはっきりとはわからずに、何かを置いてきてしまったという感覚をどうしても払拭することができない。”
おそらく、誰でもそんな気持ちになることがあるだろう。

でも、そう聞くと、自分もまたなにかをなくしたような気がしてきて、思わず当てもなく身の回りを探してしまう。
そんなあなたに、お薦めの1冊。