かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『魔宴』

 

魔宴

魔宴

 

 人生の瑣末な出来事を記録することに何らかの価値があるなどと考えるのは、取るに足らない虚栄心の表れでしかない。それでも人はそれを書きとめて、内なる宇宙の法則を他者に伝えるのである エルネスト・ルナンの言葉からはじまるこの本は、“私小説”なのか“回想録”なのか。

著者曰くこれは声明ではない。手紙なのだ。回想録ではなく、覚え書きなのだ。残高証明書であり、道徳の覚え書きなのだ。いや、不道徳の、と言うべきだろうか。ともかく、むさ苦しい、自己満足のための記録なのだ。とのことだが、読めば読むほど、現実と小説の境目が曖昧になってくる。

目を覆いたくなるほど破廉恥で、あり得ないほど自虐的。
痛々しいほど寂しげで、どこか艶めかしい。
読んでいるとすごく切ない気分にさせられるのに、この語り手を信頼して良いものかどうかとまどうほどにスキャンダラスで…。
とにもかくにもものすごく、ヤバイ感じの本なのだ。


1906年、パリのユダヤ人家庭に生まれたモーリスは、小さい頃に両親が離婚し、母方の親族の元で育つ。
そのため父から譲り受けたドイツ風の名前ではなく、母方のサックスを名乗る方を好んだようだ。
子どもの頃に最も影響を受けた人物として紹介されているのは、母方の祖母の再婚相手、ジャック・ビゼーだ。
ジャックの父ジョルジュ・ビゼーはあの『カルメン』をつくった作曲家のビゼーだが、ジャックが3歳の時に亡くなっていて、弁護士と再婚した彼の母は華やかなサロンの女主人となったのだった。
当時の名だたる貴族や芸術たちが足繁く通ったストロース夫人のサロンは、マルセル・プルーストが『失われた時を求めて』の主要な登場人物を見いだした場所としても有名なのだとか。

モーリス・サックスの周りには、彼がまだそのことを十分意識するよりももっと前から、パリの芸術家や知識人や、有名になろうと野心を燃やすそれらの卵たちがうごめいていた。
けれども、彼がそこから学んだことはというと、酒や愛に溺れることや、金に汚く借金まみれになることや、とにもかくにも道に外れた生き方をするとか、いよいよとなったら口に銃身を突っ込んで引き金をひくと同時に人生の幕も引くといった生き様だった。

あるとき、ジッドの写真を壁に掛けようとしていたサックス青年は、友人にその古くさい好みを批判され、今や時代はコクトーだとばかり詩人本人に紹介され、詩人とその作品に魅せられて、その魅力に溺れていく…。
もしも写真を手にしていたあのときに……いやいやそれはないだろう。
ジッドからコクトーへ、たとえその瞬間がなかったとしても、早晩青年はコクトーに惹きつけられる運命だったに違いない。
もっともサックスときたら後年、誰あろうそのジッドにさえも、大いに世話になり迷惑をかけることにもなったのだったが。

仕事を始めてもなかなか上手くはいかず、ようやく収入を得ることが出来ても金が入ればついつい贅沢をし、結局はいつも借金漬け、このままではいけないと思ったとか思わなかったとか、とにかくカトリックに改宗し、なんと神学校に進学するが、そこもまた淫行が原因で放校になってしまう。

酒に飲まれ愛に溺れ、自意識に苛まれ、贅沢に明け暮れると同時に貧困にあえぐ、そんな自堕落な半生を描いた自伝的小説には、サックスが見聞きし、時にはその当事者ともなったスキャンダルを含めた、実在の芸術家たちとの交流が占める部分も多く興味深い。

めちゃくちゃな生活をおくりつつも、その読書量や知識は半端ではなく、作家やその作品への鋭い批評も読み応えがある。
とりわけ207ページあたりから展開されるプルースト論はなかなかのインパクト。

そもそもプルーストのヒロインは、明確な性をさえ持たない。彼女は愛そのものであって、読者はそれぞれに自分の慕わしく思う人の姿をそこに投影することができるのだ。

澁澤龍彦がその著書『異端の肖像』の中で『魔宴』とは、マルセル・プルースト晩年の「奇怪な倒錯的嗜好」を暴き、そこに「子供の残虐さ」を見出す告白の書なのであると評していたことが訳者解説で紹介されていたが、この宴で紹介されたプルーストに関するあれこれには、そういう面があったとしても、それだけでは決してないように私には思われた。

これから読む方のためにアドバイスするとしたら、読み進めるに当たっては、栞を二枚以上用意した方がよさそうだ。
一枚はもちろん、どこまで読んだか。
二枚目はなかなか親切な訳註用に。
もしもあなたが気に入ったフレーズや、気になる本をメモするタイプの読書家ならば、メモ用紙も必要だ。
様々な作家の様々な作品からの引用が読みたい本を増やすに違いない。