かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『「世界文学」はつくられる: 1827-2020』

 

「世界文学」はつくられる: 1827-2020

「世界文学」はつくられる: 1827-2020

 

 “「世界文学」とはなにか”と題される序章からはじまる本書は、およそ380ページにわたって展開される、比較文学や翻訳研究が専門の著者による学術論文集だ。

「世界文学」という呼び名でいったいなにが名指しされ、なにがどう読まれてきたのか。
日本とソヴィエト、アメリカにおける「世界文学」のありかたを、主にその地域で発行された「世界文学全集」や「世界文学アンソロジー」のような叢書やアンソロジーをとりあげて、翻訳、出版、政治、教育などの観点から分析し、その理念やあり方の歴史的意味を探っていく。

興味深いのはこうした研究にあたって著者は、(著者の言葉をそのままうけとるとすれば)本書に次々と登場する小説を「ほとんど読んでいない」ということだ。
文学作品に変わって引用され、主役となるのは全集やアンソロジーの目次だ。
そう聞くとなんだか堅苦しいイメージをもたれるかもしれないが、心配はいらない。
これがちょっと信じられないほど面白いのだ。


例えば“なぜ「イチヨー・ヒグチ」がアメリカ発の「世界文学アンソロジー」でもてはやされたのか”などと言われると、一葉の作品がアメリカで読まれていたことを知っていても知らなくても、本好きなら気になる人は多いはず。

様々な全集の目次は、私のようなリスト好きにはたまらないお宝でもある。
編者の思惑を想像しながら目次をみると「なんでそんなところにそれが入っているのか?」「なるほどそういう意図だったのかも!?」「それまだ読んでいないけれど、その並びで見るとなんだかめちゃくちゃ面白そう」などなど興味は尽きない。

そういった“本筋”ももちろんだが、“あのストルガツキーによる芥川解説!?”とか、“もしも三島が割腹自殺をしなかったら、「世界の評価」は変わっていたかも?”など“枝葉”の部分も面白い。


あえてことわるまでもなく、多くの場合、外語で書かれた文学は読者の母語に翻訳されなければ、読まれることはなく、翻訳されるという時点で既に何らかの意図を持って取捨選択がなされているわけで、その“わけ”を読み解くこともまた、翻訳文学とのつきあい方の一つでもあるのだと改めて思ったりもした。