かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『一九八四年[新訳版]』

 

 最初にお断りしておくが、私がこの本を手にするのは今回が初めてだ。
そればかりか、ジョージ・オーウェルという作家の名前は知っていたものの、その作品はこれまで一作も読んだことがなく、文学史的な意味はもちろん、社会や世相に与えた影響といった意味においても、この作品が占める位置というものに全くといって良いほど関心を持ってこなかった。
物語を読み終えた後、巻末の解説を読んだり、他の方の書評を拝見したりして推察するに、おそらく私の年代では、これは相当珍しい状態だったに違いない。
なにしろ、日頃私が何の本を読んでいるか等一向に興味を示さないうちの家族でさえ、懐かしそうに話題にしたぐらいだから。

前置きが長くなったが、ようするになんの予備知識も先入観もなしに 復活!課題図書倶楽部・2015の課題図書であることを理由に読み始めたこの小説、実をいうと初っぱなからものすごく面白かった。

「後味が悪い小説はきらい」と公言してはばからない私ではあるが、この本に限っては、ハッピーエンドはありえない。
附録とピンチョンの解説を含め、最後まで満喫、満足して読み終えた。

どのくらい面白かったかといえば、図書館で借りるだけではあきたらず、やっぱりずっと手元において置きたいと思わず購入を決意してしまうほどだった。

戸々の家、職場、街頭など、あらゆるところに設置されたテレスクリーンから、絶えず流され続けるプロパガンダ
ボリュームを落とすことはできても、スイッチを切ることはできないそのスクリーンは、一方的に情報を流すだけでなく、スクリーンの向こう側からこちらを監視することもできる。人々は常に見られていることを前提に生活をしている。

そればかりではない、子どもたちは幼いころからヒトラーユーゲントを連想させるスパイ団なるものに組織され、指導者“ビック・ブラザー”に対する忠誠のもと、大人たちを見張りさえするのだ。

歴史は常に改ざんされ、いついかなる時にも不都合な真実は存在しない。

人口の20パーセントほどをしめる“党員”は公的な秘密の職務に就いていて、厳しい規律と統制が求められ、性行為は快楽を伴わずただ子どもを作る目的のみに営まれるべきものとされ、個人の時間など存在しないものとされている。

そんな社会にあって、主人公のウィストン・スミスが大胆にも、テレスクリーンの監視の目をくぐって日記を書き残そうとすることから物語ははじまる。

日記を書く。
それは思索そのものであり、過去をあるいはやがて過去になるはずの現在を書き残すことであり、個人的な時間を持つことでもあり、つまりは紛れもない反逆行為に違いない。

だからこそウィストンは自分に向かって言い聞かせたのだ。

おまえはもう死んでいる
<思考犯罪>は死を伴わない。<思考犯罪>がすなわち死なのだ。

ストーリーに関するあれこれも、この小説のもつ文学的、あるいは社会的意義についても、おそらくは他のレビュアーさんが詳しく述べられることだろう。
だから私はここに、私が感じたことを率直に書き記すだけに留めたい。

とても恐ろしい小説ではあるが、私にはこれ、よく見知っている世界の話のように思われた。
過去の話でもなく、未来の話でもなく、名前を変え形を変えて、幾度となく繰り返され、その都度巧妙になっていく「今」の、権力と自由の話なのだと。

たぶん私は既に“覚悟すべき”人間なのだ。
いや、ことによるともう“死んでいる”のかもしれない。
あるいは今このときにもこのパソコン画面の向こうから誰かがじっと………。

          (2015年03月08日 本が好き!投稿