かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『ジェーン・エア (下巻)』

 

ジェーン・エア(下) (新潮文庫)

ジェーン・エア(下) (新潮文庫)

 

 ずは 前回の出題の答えから。
A=光文社古典新訳の小尾芙佐訳、B=新潮文庫の大久保康雄訳。
「かつて大久保訳を読んだ」という方も多いようだからこれは結構簡単だったかな?
次回はもっと難しい問題にしよう!(違っ

ちなみに私が今回選んだのは新潮・大久保訳。
決め手となったのは“古めかしさ”か。
会話は光文社・小尾訳の方がこなれているような気もするし、その一方で軽くなりすぎないように風景描写など言葉の選び方にも気を遣っていることがうかがえるが、なにせ作品自体が古典なので多少とも厳めしい文体の方がより雰囲気を味わえそうな気がしたのだ。

新潮文庫版は本文だけ数えても上巻で428ページ、下巻で414ページ。
おまけに私の読んだ旧版(昭和55年47刷)は、字が細かくところどころ印刷がかすれる図書館閉架棚本だ。
借りてきたときには(これで読み進められなかったら意を決してKindle版を購入しよう)と思ってはいたものの、(条件が悪くて読み進められないということは、中味に夢中になれないということでもあって、それを買うのもなんだよなあ…)などとも思っていた。

冒頭から120ページぐらいまでの主人公が『キャンディ・キャンディ』並にいじめ抜かれるシーンがなんともいえずしんどくて、挫折しそうになること数回。

(ちなみにこのいじめシーン以外にもそこここに“キャンディ”の影が?!って、もちろん、本来なら“キャンディ”の方に“ジェーン・エア”の影をみるべきなのだろうけれど)

寄宿学校と家庭教師先のあれこれには『あしながおじさん』テイストも登場だ!
(そういえば、『あしながおじさん』のジュディも確か『ジェーン・エア』を夢中になって読んでいたっけ!)

このあたりからだんだんと興に乗ってページをめくるスピードも速くなる。

成長したジェーン・エアの恋バナには、作者であるシャーロット・ブロンテが「情感が乏しい」と批判したというジェイン・オースティンの面影もちらほら。

他にも、ああこれはあの作品と、もしかしたらあの作品も?と、いろいろな繋がりが見えかくれするようで、そういう意味では非常に面白かったし、作中ににじみ出ている作者の宗教観や人生観もなかなか興味深かった。

がしかし、その一方でこういう読み方は“邪道”なのではないかと思ったりも。

とはいえ、もしもこの作品を中高生の頃に手にしていたら、最初の100ページで挫折していたかもしれないし、生意気盛りの若かりし日に読みレビューを書き留めていたとしたら「このジェンダー観は!」みたいな理屈っぽいことを書き散らかしたかもしれないなあ~という気も。

だいたいね。あのセント・ジョンなんかね。
典型的なモラハラ男じゃない?!……みたいな…ね。

そういう意味では、今が一番、読み時だったのかもしれないなあ~と思うことにしよう。そうしよう。

それにしても……
作者が作品に自分や身近な人々の人生を投影させるとか、自分の理想や憧れを描くというのは、昔からよくある手法なのだとは思うけれど、この作品に映し出されるシャーロット・ブロンテの想いは本当に痛々しい。

自分の半生をジェーン・エアに投影させて、苦難の末に“幸福”をつかませてはみたものの、彼女自身が本当にありたかった姿は、ダイアナやメアリーのような穏やかな人生だったのかもしれない。

              (2016年04月27日 本が好き!投稿