かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『戻ってきた娘』

 

戻ってきた娘

戻ってきた娘

 

 子どもの頃は誰だって一度や二度、「自分はこの家の子ではないのでは」とか「もしもあの家の子だったならば…」などと、考えたことがあるのではなかろうか。
でももし、それが現実だったならば……。

13歳のとき、もう一人の母親のことはわたしの記憶になかった。
こんな書き出しで始まる物語は、周囲から「アルミヌータ(戻ってきた娘)」と呼ばれる「わたし」の回想という形で綴られる。

ごく普通の家庭の一人娘として、恵まれた生活を送っていた「わたし」が、「あれがおまえの本当の母親で、ここがおまえの本当の家、おまえの本当の家族なのだ」と、いきなり子だくさんの困窮家庭に連れてこられ、粗野な兄たちと同じ部屋で、しかも生まれて初めて会ったばかりの妹と同じベッドを共有して互い違いに寝ることになったのか。

その理由が彼女にも読者にもなかなか明かされないがために、物語はますます波乱に富み、緊張感を増す。


「お母さんは病気なのかもしれない」「死んでしまったのかもしれない」あるいはもしかすると…。
本当は遠縁のおばさんなのだと知らされても、育ての親を慕う気持ちも、それまで育った環境を恋しく思う気持ちも捨てられるはずもなく、とまどいと苦悩に押しつぶされそうな娘の心に共鳴し、彼女の願うような結末にはならないだろうと予測しながらも、読者もまた、真相を追う娘の後を必死に追いかけずにはいられない。
同時に「母親」とはいったいなんなのかと、繰り返し繰り返し考えずにはいられないのだ。

そしてまた「貧困の連鎖」についても、そこから抜け出すすべについても。

「わたし」の回想に胸を打たれながらも、頭の片隅でそうしたことをつらつらと考えているうちに、母もまた一人の女性であり、それが故に抑圧された弱者であることも少なくないのだという、忘れがちだが当たり前のことに思い当たる。

そうした背景を理解したところで、傷ついた子どもの心が救われるわけではないのだけれど。


物語の救いは、思いがけないところからやってくる。

わたしの妹。岩にへばりついたわずかな土くれから芽を出した、思いもかけない花。わたしは彼女から、抗うことを教わった。

子だくさんの貧しい家庭の中で、人一倍たくましく育った実の妹アドリアーナの存在が「わたし」を支え、勇気づけてくれるとき、読者もまた、二人の未来に希望を見出す。

もちろんアドリアーナだとて、「もしも他の家庭で育ったのが自分だったならば…」と、思い巡らさないわけはなかったであろうと、物語では語られることのない、もう一人の娘の気持ちを思うとまた胸が痛みもするのだけれど。

どうあっても、この二人には幸せになって欲しいと強く思うだけに、続編もぜひ、そう遠くない時期に翻訳して欲しいと願いつつ本を閉じた。