かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『エルサレム〈以前〉のアイヒマン』

 

 1961年にアメリカ・エール大学のミルグラム博士によって行われた実験は、権威者による命令が個人を従属させ、他人に電気ショックを与えるといった残酷な行為さえも“自分は命令に従っただけと自らを納得させてしまう”という結論を引き出した、通称「アイヒマン実験」として知られている。

もう随分昔のことになるが、学生時代に受けた心理学の講義で「アイヒマン実験」にふれたことをきっかけに、ハンナ・アーレントの『イェルサレムアイヒマン』(旧版)を読んだ。
そういうきっかけだったせいもあるのだろう。
ミルグラムの実験はまさに、アイヒマン裁判を傍聴したアーレントが導き出した結論……アイヒマンを世間が言うような世紀の極悪人ではなく、特別優秀なわけではないが、常に自分を大きく見せたがる見栄っ張りで、そのくせ上からの命令には従順などこにでもいそうな小心者の小役人に過ぎなかったというその結論……を、裏付けているように思われて、深く記憶に刻まれたのだった。

ここに、一人のドイツ人哲学者がいる。
ベッティーナ・シュタングネト。
カントと根源悪についての研究で博士号を取得したこの哲学者は疑問を抱く。
アイヒマンは本当に凡庸で従順な男だったのか。
膨大な資料を読み込んで執拗なまでにアイヒマンの過去を洗い出すのが、歴史学者でも心理学者でもなく、アーレントと同じ哲学者であるという点は非常に興味深い。

シュタングネトはいう。
一九六三年の『エルサレムアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』以来、アドルフ・アイヒマンについて語る試みは何であれすべて、ハンナ・アーレントとの対話でもあった。と。

エルサレムアイヒマン裁判を傍聴するずっと以前から、アーレントアイヒマンに関心を寄せていた。
アイヒマンのことを“あの連中のなかでは最も聡明な人物の一人”であり、彼を理解しようとする者はナチ犯罪を理解するに当たって決定的に一歩先に進むであろうと考えていたのだ。
けれども実際にエルサレムで目にしたアイヒマンの姿は、アーレントを苛立たせた。
かの男は“貧弱な人物で、哀れっぽい長広舌をふるい、強制された命令や軍旗への誓いに縛られていたことについて喋り立て、人々の気持ちを萎えさせた”。人々が悪魔と聞いて様々な形で思い浮かべるようなカリスマ性など備えてはいなかったというのだ。

当時、ホロコースト研究はまだはじまったばかりで、記録文書は少なく、被告人から新たな情報を得たいという願いの方が、用心しなくてはという気持ちを上回っていた。
アーレントは理解するために“理解されたいと願う者だけが書き、話すのだと仮定して”徹底的に尋問と裁判の調書を読み込んだ。
「それこそが罠だった」のシュタングネトはいう。
エルサレムアイヒマンは仮面以上のものではなかったから」と。


シュタングネトはそうした前提にたって、当時、アーレントがその存在は知っていても実際に目にすることが出来なかった資料や、現在は公開されているが当時はその存在すら明らかにされていなかった機密文書など、膨大な資料を丹念に読み込んでアイヒマンの実像に迫っていく。

結果書き上げられたのが、主な登場人物紹介に3ページ、本文だけで577ページ、日本の読者に向けたメッセージに4ページ、おそろしく細かい字でかかれた人名索引と註釈に95ページをさいたこの大作というわけだ。

正直にいうならば、読み始めてしばらくは、著者がなぜこれほどまでにアイヒマンにこだわるのかがわからなかった。
アイヒマン一人に焦点を当てすぎれば、逆に「ユダヤ人問題の最終解決」の本質が見えにくくなってしまうのではないか、という疑念もあった。

苦悩、侮辱、喪失を経験する者は、その上自分を、凡庸な人物の犠牲者だとは思いたくない。役立たずに暴力を振るわれたと考えるのは、単に誰かに暴力を振るわれたという事実よりもずっと堪え難いからである。(p58)
アイヒマンが決して居合わせなかったはずの場所で彼を見たという者が大勢いるのはその結果で、それはまさに願望の投影であるから、それだけでも彼がただ者ではなかったことは明らかだと、著者は分析しているのだが、そうであるなら同様に、多くの人々が犠牲となった死の行進を指揮した人物が、ただの人であって欲しくはないという気持ちが、歴史を検証する側にもあるのではないかと思ったりもした。

けれども、戦後アイヒマンが戦争捕虜収容所から逃亡し、北ドイツで営林署に勤めたり養鶏業を営んだり、アルゼンチンで表面的には偽名をつかいつつも、自分があのアイヒマンであることも、自らがしてきたことも隠そうとしないばかりか、誇りながら暮らしているその様子を、証拠をあげて目の前につきつけられていくうちに、著者が明らかにしたかったのは、あくまでもアイヒマンその人の人となりであったことをようやく理解する。

その上で、彼を取り巻く人々が、ある者は自分の罪の軽減を図るために、ある者は自分が望む「真実」を明らかにしたいがために、またある者はひと儲けを企んで、アイヒマンを利用しようとし、そうした人々とアイヒマンその人の言動が絡み合い、すれ違い、反発し合うとき、そこに浮かび上がるってくるものが確かにあって、それは、見たいようにしか見ない、読み取りたいようにしか読まないといったことを含めた人間のエゴであったりもし、同時に幾重にも張り巡らせれ絡み合う政治的な思惑であったりもする。

エルサレム<以前>のアイヒマンを明らかにすることは、エルサレム<以後>に明らかになったあれこれをもって、歴史を再検証すると同時に、エルサレム<以後>の国民社会主義の動向を分析することでもあったのだ。

とはいえ、ドイツには今なお、開示されない機密文書もあるというし、本書もやはり現時点での到達点でしかなく、いずれまた明らかにされていくこともあるのかもしれない、とも思う。

決して楽しい話題の本ではないが、読み応えのある1冊。
おかげで私はまたまた読みたい本のリストを長くのばしてしまった。

尚、今回私は、ハンナ・アーレント『エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告【新版】』の延長上で、この本を手にしたのだが、アルゼンチンでイスラエル諜報機関に拉致されるまで、いかにしてアイヒマンが逃げおおせていたのかという点では、その逃走手段や各国の諜報活動の実態をふくめスリリングな実話としての読み応えもあり、そうした方面からのアプローチもまた興味深いかもしれない。