かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『あらゆる名前』

 

はじめてこの本を手にしたのは、タイトルと羊が描かれた表紙絵に惹かれてのことだった。
パラパラとページをめくってはみたものの、ぎっしりと詰まった活字に閉口して、そのまま書棚に戻した。


次にこの本を手にしたときは、作者がポルトガル語圏初のノーベル賞受賞作家だということを知っていたので、最初の数ページを立ち読みしてみたが、これまた読み切れる自信が持てずに再び書棚に返却した。


三度目の正直でこの本を手にしたとき、あいかわらず活字がびっしりで、しかも段落というものがほとんどなく、つらつらと書き連ねられる文章に戸惑いながらも、なぜだか無性に読んでみたくて、思い切って持ち帰ることにした。


いざ読み始めてみても、戸籍管理局に勤める、出世をしたことも出世を夢見たこともないような50代の独身男性「ジョゼ氏」が主人公だということはわかるものの、いったい作者が何を書かんとしているのかがさっぱりわからない。


それなのにページをめくる手を止めることが出来ないのだから、本当に不思議としか言いようがない。
その不思議ぶりは、タイトルが『あらゆる名前』であるにもかかわらず、出てくる名前は「ジョゼ氏」のみで、あとはすべて、課長とか局長とか、一階に住む女性などと著され、人物の名前は一切出てこないというところにもみてとれる。


「ジョゼ氏」は、有名人に関する新聞、雑誌の切り抜きを集めるのを趣味としているのだが、その切り抜きと一緒に戸籍の記載事項を書き加えられれば完璧なコレクションになると思い立って、ある日とうとう夜の戸籍管理局に忍び込んで書類を持ち出してきてしまう。
持ち出した書類の中に、まったく無名の関係ない女性の書類が紛れ込んでいたことから、「ジョゼ氏」はその彼女を知りたい衝動にかられ、ついに行動を開始する。
真面目一本で、これまで規則通りに暮らしてきた「ジョゼ氏」が、一線を踏み越えてからは、もう「やめなさい!やめときなさい!!」と読みながら思わず叫びたくなるようなすさまじい逸脱ぶりをみせる。
それはもう読んでいるこちらの冷や汗が流れ出そうなほどで、(最後は全部夢だった……で終わっても許すわ。)と、思わず思ってしまうぐらいなのだ。


ところが読み進めるうちに物語はいつしか、彼の「コレクション」にかける執念を越えて、官僚機構のあれこれや、機械化と手書き作業のこと、人と人の交わりについて、時というものについて、生と死について、人生そのものについて、あるいは、その他のありとあらゆるものについてと果てしない広がりをみせるようになる。


この作品を社会派とみるのか、哲学的とみるのか、不条理文学としてとらえるのかは読み手次第。

なんといっても読書は「趣味」だ。
「ジョゼ氏」のコレクションほどの「危険」はないかもしれないが、気がつけば、大海原をさまようことにもなりかねない。
なぜ本を読むか、なにを本に求めるのか、それもまた読み手によって変わるもの。
一冊の本がどんな道へとつながっていくかは、誰にもわからない。


ちなみに私の道は、かつて歩いたリスボンの街の石畳へと続いていた。
そこで出会った名前も知らないポルトガルの人たちの柔らかな笑顔。
どこか懐かしい街並み。
敬虔な信仰から捧げられていた祈り。
それらを思い浮かべながら、ほんの少し、人生について想いを巡らせる。
そしてまた、不思議な物語へと戻っていくのだ。

                  (2012年03月23日 本が好き!投稿