かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『リカルド・レイスの死の年』

 

ポルトガルの詩人ルイス・デ・カモンイスの名前を知らなくても、ここに地終わり海始まるという一節を聞いたことがあるという人は多いだろう。
この一節をタイトルに据えた宮本輝の小説を読んだことがあるという人もいるに違いない。

だからおそらくここで海が終わり、陸がはじまる。というこの長編小説の出だしを読んだら、「おや?」と思う人は多いと思うのだ。

もちろんこれは、ポルトガル初のノーベル文学賞作家 ジョゼ・サラマーゴの長編小説であるから、例によって例のごとく、原文にはほとんどピリオドなく、会話も「 」でくくられることなく地の文に取り入れられていたり、改行がなかったりしているはずだ。
翻訳にあたってもできる限りそのスタイルを踏襲しようという努力がなされているので、文字がぎっしり詰まったページを目にして、すごすごと引き上げてしまう読者もいるかもしれない。

だがもしあなたが意を決して、陸に上がるならば………そうこれは、ポルトガルの港に船が着き、一人の男が16年ぶりに彼の地に降り立ったところから始まる物語なのだ……あなたは1936年のリスボンの街を、医師であり、詩人であり、保守的な王党主義者でもあるリカルド・レイスという名の独身男性と共に、さしたるあてもなく歩きまわることになる。

あるいはもしかすると、あなたは彼の名を聞いたことがあるかもしれない。
もしその名に心当たりがなかったとしても、おそらくフェルナンド・ペソアという名前は知っているだろう。
リカルド・レイスは、ペソアの訃報を受けてブラジルから帰国したのだ。
それゆえ当然のこととして、彼はペソアの墓に向かう。もちろんペソア本人がそこにいるものだと思って。
だが後日、ホテルに訪ねてきたペソアによれば、ちょうどその時、自分は不在にしていたのだという。
君はいるのだと、あそこから決して出られないのだと思っていたというリカルド・レイスにペソアは、死後だいたい九ヶ月ほどの間は墓から出て、きままに歩き回れるのだと説明する。

母の胎内にいた時間と同じさ、バランスの問題だと思うよ。生まれる前、僕たちの姿は見えないが、親たちは毎日僕たちのことを考えている、死ぬと、僕たちは見えなくなり、毎日少しずつ忘れられてゆく、特別な場合をのぞいて、九ヶ月はすっかり忘れられるに十分な時間だ

こうしてリカルド・レイスとフェルナンド・ペソアは、その後も何度か会い、その都度、形而上的な対話を繰り広げる。

またリカルド・レイスは、滞在するホテルのメード、リディアと関係を持つ。
それはメードの名前がリディアだと明かされたときから、予測された事態でもある。
なにしろリディアだ。

僕たちの知っているものは リュディアよ なにもない 僕たちは 異邦人だ たとえどこにいようとも
   ( 『ポルトガルの海』収録「僕たちの知っているものは」より)


リカルド・レイスの詩に繰り返し登場するこの名を持つ女性が、ただの通りすがりのはずはなかった。

けれどもリカルド・レイスはメードと密会を重ねながらも、同じホテルに滞在する片手が不自由な令嬢マルセンダに想いを寄せる。想うだけではなく積極的に行動に出さえもするのだ。

ぼちぼち仕事もし、新聞を読んでは世界情勢を憂い、女を抱き、思索にふける。
自分自身を求めて彷徨う男のそれは、あくまでサラマーゴの作風でありながら、同時にペソアを思い出させる。

奇妙なことに 『フェルナンド・ペソア最後の三日間』を描いたタブッキも、ペソアの死後九ヶ月間を描いたサラマーゴも、いかにもそれぞれらしい作風でありながら、とてもペソア的であるように感じられるのだ。

アルベルト・カエイロ、リカルド・レイス、アルヴァロ・デ・カンポス等々様々な異名を使い分け、それぞれになりきって、その性格や背景にふさわしい作品を作りあげたペソアのことだ。
タブッキやサラマーゴの名前で書かれたこれらの作品も、実はペソアが異名で書いたものだったのだと言われたら、なるほどそうだったのかと思ってしまいそうな気さえしてくるのだった。

             (2019年08月08日 本が好き!投稿