はじまりはカバの話だった。
かつての麻薬王の私設動物園で飼育されていたカバが逃げ出して、野生化してしまったという。
そのカバが捕らえて射殺される。
私のような“部外者”には唐突に思われるそのシーンは、ある時期のコロンビアの歴史を共有した人々には、(ああ、あの時のあの話なのか!)と様々な思いと共に記憶を呼び起こす実際にあった出来事なのだという。
コロンビアの首都ボゴタに住む大学教員を語り手にすえて、一人称で明かされる物語は、1990年代半ばのコロンビアを舞台に、語り手の体験したごく個人的な出来事で構成されている。
ビリヤードを通じて知り合った中年の男性リカルド。
語り手とどこかうさんくさそうなうらぶれたその男との距離が少しずつ縮まってきたかに思われた矢先、リカルドは殺されてしまう。
しかも語り手は、このリカルドの死の現場に居合わせ、さらに恐ろしく不運なことに、リカルドを狙ったと思われる銃弾の流れ弾に当たって重傷を負ってしまうのだ。
結果、その事件は語り手の日常を大きく変えてしまうことになった。
リカルドとは何者だったのか。
彼はなぜ殺されたのか。
PTSDに悩まされることになった語り手は、傷の痛みに顔をしかめ、折々襲ってくる激しい恐怖にさいなまれながら、この謎と向かい合い、リカルドの人生を再構成していくことになる。思い出したところで、結局良いことなどひとつもないし、アスリートたちがふくらはぎに巻きつけてトレーニングする重りのサンドバッグのように、私たちの足取りをのろくするだけなのに。
そう、語り手はいつも過去を語っている。
リカルドとの出会い、リカルドとのやりとり、リカルドと共に銃撃されたこと。
あるいはかつての教え子だった妻とのなれそめ、愛娘の誕生、あの女性との出会い……。
だがそれも当然のことなのだ。
なぜって「今」は語られる時点で常に過去になっていくものだから。
過去を共有するということ、共通の記憶を持つということの意味、あるいは記憶を共有しないことの意味について、私は本を閉じたあとも考え続けている。
コロンビアという国の、ボゴタという街の、そこに暮らしてきた人々の、記憶。
その歴史を知らなかったならば、無かったことにできるものなのだろうか。
語り手はとても繊細な息づかいで、それでいて率直な告発を含みながら物語を語りあげる。
この物語には、ラテンアメリカ文学の響きに読者が想像しがちな匂いはあまりない。
もしかするとその点を物足りなく思う読者もいるかもしれない。
けれども物語は確かに読み手をコロンビアへと誘う。
彼の地は、秘境でも、失われた大地でも、魔術が巣くう街でもなく、大国と私利私欲に走る一握りの者たちの思惑に翻弄された人々が暮らす土地ではあったけれど。
(2016年06月27日 本が好き!投稿)