かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『君の顔では泣けない』

 

30という小見出しの後に年に一度だけ会う人がいる。夫の知らない人だと、思わせぶりな書き出しで始まる物語。
叶わなかった昔の恋の相手かなにか?不倫ものではないでしょうね?と、構えさせておいて、実はこれ「入れ替わり」ものだ。

十五年前。俺たちの体は入れ替わった。そして十五年。今に至るまで、一度も体は元に戻っていない

水村まなみと坂平陸。
それまでろくに口をきいたことすらなかった2人の間に起きた「入れ替わり」。
始まりは、高校1年生(15歳)の夏。
プールサイドで足を滑らせた陸が、クラスメイトのまなみと一緒に学校のプールに落ちたことがきっかけだった。
プールから上がったときは、何事もなかったはずだった。

しかし翌朝、陸が目を覚ますとそこはピンクのカーテンがかかった見知らぬ部屋で、鏡を覗き込むとチェックのパジャマを着た“まなみ”の姿が写っていたのだった。

朝起きたら…、この夏が終れば…、元に戻っているかもしれないと日々期待しながら、思いつく限りのことを試した二人だったが、結局、元には戻らなかったというのだ。

冒頭からいきなり“ネタバレ”を連発する展開に少々面食らいながら読み進めると、次第にこれが単なる「入れ替わり」ものでないことがわかる。

いつ元に戻るかわからないから、その時のために、お互いを演じ続ける。
勉強も就職も友情も恋愛も、親子や兄弟の関係すら、自分だけでなく、この身体の本当の持ち主、本来この立ち位置にいるべき相手のことを考えずにはいられない。
失敗はゆるされない。自暴自棄になることも…。

そして冒頭の30という数字。
もしこのままずっと戻れないとしたら、陸の"水村まなみ"としての、まなみの"坂平陸"としての人生は、30歳を節目にこれから先、元の人生よりも長くなっていくのだ。

“入れ替わったこと自体への苦悩”を描いてみたかったという作家は、従来の「入れ替わり」ものによくみられたようなコミカルな面も、女が男になることによって突き破ることができるジェンダーの壁を描くようなこともなく、その“苦悩”を女になった男の視点から淡々と描いている。

現実には全くあり得ない話にもかかわらず、思いがけず涙を流し盛大に鼻をかみながら読むことになったのは、親の死に目にも会えないといった入れ替わりに伴う苦悩だけでなく、常に違和感を感じながら、性別や両親や生まれ育つ家庭環境といった、自分自身ではどうすることも出来ない、選択の余地のないあれこれと格闘し、懸命に生き方を模索する若者を描いた作品でもあったからだ。

第12回小説野性時代新人賞受賞作。

作品に若さはあるが、とてもデビュー作とは思えない巧みさもある。
これからの活躍が楽しみな作家登場だ。