かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『イスラーム精肉店』

 

物語の舞台は1980年代初め、イスラーム寺院のそびえ立つソウル梨泰院の路地裏だ。
今でこそソウルの中でも特に外国人観光客が集まる観光エリアである梨泰院だが、再開発前は、朝鮮戦争の避難民や、戦争孤児、故郷を失った人々が多く暮らす街だったという。

主人公兼語り手の「僕」は、孤児院を転々とした後、朝鮮戦争に従軍した元トルコ兵のハサンおじさんに引き取られる。

両親に関することだけでなく幼い頃の記憶を一切もたない「僕」には、身体にひどい傷跡がある。自分の生は望まれなかったのか、誰かに疎まれたのだろうか、傷跡は記憶にない過去をあれこれ想像させて「僕」を苦しめている。

そんな「僕」を引き取ったハサンおじさんは、日々の祈りを欠かさないイスラーム教徒でありながら、豚肉を商う精肉店を営んでいる。
ハサンおじさんの精肉店から肉を仕入れているのは、近所で忠南食堂を営むアンナおばさんで、「僕」の身体や胃袋のことをいつも気にかけてくれている。
忠南食堂の屋根裏部屋に居候を決め込んでいる元ギリシャ兵のヤモスおじさんは、口を開けばホラばかりふいている。
貧困と両親の不和の為に苦しむ吃音の少年ユジョンは「僕」の友だちで、小説家になることを夢見ている。

誰もが貧しくて、誰もが心や身体に傷を負っていて、心が張り裂けそうで叫びださんばかりのようなのに無駄口を叩いて周りをあきれさせたり、軍歌を歌い続けたり、ただ黙って口を閉ざしていたり、せっせと人の世話をやいたりしつづける、そんな人たちの営み。

見ず知らずの人々の、全く知らない暮らしぶりが、どうしてこんなに切なく心に響くのか。


僕はユジョンに、においを表す言葉を教えてほしいと言った。ユジョンはじっと考えてから、味とにおいを表現する言葉は、互いに置き換えられると言った。甘くて酸っぱくてしょっぱくて辛くて苦いにおい。味覚と嗅覚の転移。共感覚。こんな言葉がユジョンの口から飛び出した。もし漫画の吹き出しのように言語を視覚化することができたら、ユジョンの口から出た言葉はまだ熟していないリンゴみたいなものではないかと、僕は思った。(p196)


このくだりを読んだ時、わたしはしばしの間、トラックの荷台に乗り込んでピクニックに出かける人々から離れて、物語の読み心地もまた、味やにおいを表現する言葉に置き換えが可能であることに思いをはせた。

「甘くて酸っぱくてしょっぱくて辛くて苦い」。
どこか懐かしく、人の記憶の奥底に沈んでいる「あの頃」を思い出させるようなにおい。


一見なんのつながりもなさそうな寄り合い所帯のような面々が、路地裏でひしめき合って暮らしている。
これはそんな物語だ。

「平和」な時代の物語ではあるが、間違いなく「戦争」の物語でもあって、大人になった「僕」が「あの頃」を回想する物語ではあるが、「今」のあり方を問うそんな物語でもあった。