かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『生まれつき翻訳: 世界文学時代の現代小説』

 

本書はレベッカ・L・ウォルコウィッツの『生まれつき翻訳--世界文学時代の現代小説』(2015)の日本語版だ。
「邦訳」ではなく「日本語版」であることが“味噌”で、その意味はこの本を読んでいくとだんだんと分かっていくようになる。

と、分かったようなことを言ってはみたが、正直なところ、本編と日本語版特別寄稿、さらにはあとがきにかわる監訳者と編集者の対談までなんとか通読はしたものの、難解な部分もあり「読めた」という気はしない。

それでも興味深い指摘がいくつもあって、思わずメモをとらずにはいられなかったし、読みたい本、読み返したい本もどっさり増え、もしかしてあの本やこの作品も「生まれつき」と、いろいろ考え始めたらどんどん面白くなってきて、本を読むのにまた一つ、新たな視点を得ることができた気がしている。

まだまだ未消化な部分もあり書評を書きあげるには至らないが、読書記録としてここにもいくつか書き残しておこうと思う。

まずは「序章」。この段階ではこれ、最後まで読み通せるかな?とかなり不安な心持ちに。
だが1章に入ったら、無性にクッツェーが読みたくなってきた!

J・M・クッツェーは英語の原作よりオランダ語の翻訳版を先に出版してしまったり、原語版と翻訳を区別することにも積極的ではないという。
翻訳され様々な言語で読まれることを前提にして書かれた物語たち。

翻訳のグローバルな拡張と増大するスピードのせいで、多くの小説家が自分たちの作品を原語と結びつけるのがまだ有益なのか、正しいことなのかを問うようになっている。作品が始めから多くの版で存在するとき、テクストに言及することはいかなる意味を持つのか。書物の多言語性は、作品が所属する文学的、政治的文化の理解をどのように変えるのか。これらは美学的な問いであるだけでなく政治的な問いでもある。(p93)

と、ウォルコウィッツ。

つづく2章で中心的に取り上げられるのはカズオ・イシグロ
2001年のインタヴューで彼は私は本当に自問する必要がある。「この一文には実質があるか?これはたんに巧妙なだけではないか?その価値は翻訳を切り抜けられるか?」

イシグロの小説は数多くの異なる点で、生まれつき翻訳(ボーン・トランスレーレッド)の作品として理解できると、ウォルコウィッツ。

「1970年代にロシア作家の人気翻訳者だったデイヴィッド・マガーシャックからとても大きな影響を受けた、と私はよく考えます。私に大きな影響を与えたのは誰かとよく人が聞くとき、デイヴィッド・マガーシャックです、と言うべきだという気がします。というのも、私の散文のリズムは、かつて読んだロシア文学の翻訳にとても似ていると思うからです」(p154)

引用されているカズオ・イシグロの言葉もとても興味深い。

3章で取り上げられるのは、物語のアクションがいくつかの大陸や地域や国家領土を舞台に展開する小説
まあ、これはある意味、なじみがあって分かりやすいかも。

4章で展開される言語の問題。
作家がどの言語で書くかという問題はもちろんあるだろうが、「他言語で書かれたふり」をしたり「翻訳されたふり」をする作品という指摘も興味深い。
ハミッドの『コウモリの見た夢』、これは絶対読まなくては!

そして5章のボーン・トランスレーレッド&ボーン・デジタル
これはまいった。ちょっと思考が追いつかない。
とりあえず、ウェブアート共同ユニット“チャン・ヨンヘ重工業”という名前は覚えておかねば。

ラヒリ、多和田葉子、イシグロを論じた日本語版特別寄稿「知らずに書く」は、ある程度作品を知っているだけに本編よりもわかりやすい。
ラヒリの 『べつの言葉で』ももう一度読み直したい。


英文学が専門の著者が翻訳を通して論じた世界文学論であるため、取り上げられているのは主に英米文学ではあるが、英語一辺倒では無く、むしろ偏りすぎる傾向に疑問を投げかけている点にも好感が持てる。

そういえば先日読んだル・クレジオの 『ビトナ ソウルの空の下で』も、フランス語で書かれた物語だったが、舞台は韓国の首都ソウル、登場人物はすべて韓国人という設定だったし、まず韓国語で、翌年にフランス語版の原書と英訳が同時に刊行されたというから、まさにこれ「生まれつき翻訳」だといえるのではないか。

あるいはまた、今話題のアンドレイ・クルコフウクライナ日記 国民的作家が綴った祖国激動の155日』もロシア語で書かれ、最初にフランス語版とドイツ語版が刊行され、ついで、英語、イタリア語、エストニア語と続き、ポーランド語、リトアニア語、ロシア語、日本語と次々に翻訳されたというのだから、まさに「生まれつき翻訳」の申し子といえるかも。

あれこれと、具体的な作品を思い浮かべてみると、いろいろなことが腑に落ちる気がしてきた。