アディーチェのデビュー作がついに翻訳された。
特別お気に入りの作品に巡り会ったあとに、その作家の昔の作品を読むと、ちょっと見劣りしてしまって…ということは、仕方が無いことだとはいえ時々ある。
でもことアディーチェに関してはその心配は無用だった。
語り手である少女カンビリの回想という形で進んでいくのは、イギリス人宣教師の下で教育を受け、原理主義的なカトリック教徒となった裕福な実業家を家父長とする家族の崩壊の物語だ。
もっともこれを単なる崩壊で終わらせないところが、アディーチェのアディーチェらしさではあるのだが、読んでいてとてもつらい物語であることは確かだ。
カンビリと兄のジャジャと兄妹の母を苦しめる父親のユジーンは、いくつもの食品工場を持つ裕福な実業家というだけでなく、ナイジェリアの民主主義擁護し、軍事政権の腐敗を追及する新聞の発行人であり、篤志家としてもその名を知られる人物だ。
けれどもその一方で彼は、己の信条と、己が良しとする規律に完璧に従うように家族に求める強権的な家父長で、少しでもそれを乱すようなことがあれば、叱り飛ばすだけでなく、罰として足に熱湯をかける、殴る蹴るなど肉体的な虐待を加えもする。
父親に愛されたい、認められたいと思う娘は、虐待を受けてもそれを当然のことのように受け入れてしまう。
ユジーンのそのかたくなな態度は彼の父親にもおよび、父親を異教徒として軽蔑していて、子どもたちにも年に一度クリスマスの15分間の訪問以外、祖父との交流を認めなかった。
ところがここに加わるのが、ユジーンの妹、イフェオマだ。
カンビリたちにとって叔母にあたるイフェオマは、夫を亡くし、大学で教鞭をとりながら、三人の子を育てるシングルマザーだ。
彼女もまたキリスト教徒ではあるが、ユジーンのそれとは全く違った態度を取っていた。
それまでほとんど交流のなかった叔母やその子どもたちと、急速に接近する中で、カンビリとジャジャの意識に大きな変化が現れていく。
しんどいながらも勢いと吸引力のある物語を読み終えて、大きく息を吐きながら、“訳者あとがき”を読みすすめるうちに思わず「あっ!」声を上げる。この作品の書き出しに、尊敬する作家チヌア・アチェベの代表作『崩れゆく絆/Things Fall Apart』のタイトルがそっくり使われていることは見逃せない。
惹かれたのはこの一節だ。
アチュベの『崩れゆく絆/Things Fall Apart』は、イギリスの植民地支配とキリスト教宣教者たちの影響下で、部族の共同体が衰退していく過程を描いた小説だ。
対するアディーチェのこの小説の書き出しは
“Things started to fall apart at home when my brother, Jaja, did not go to communion…”
ふと、ヴォネガットの『スローターハウス5』の一節を思い出す。
人生について知るべきことは、すべてフョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中にある、と彼はいうのだった。そしてこうつけ加えた。「だけどもう、それだけじゃ足りないんだ」
アディーチェはこの物語の冒頭で、アチュベ世代が築き上げてきたアフリカ文学を土台にしつつも、さらに現代の問題意識を加えて発展させ、物語を語り上げるという決意を表明しているに違いない。
そう思い至って、再び本編に目を向けると、一人の少女の成長譚に留まらない、あれこれが浮かび上がってくる気がして、もう一度、最初から丁寧に読み直してみたくなるのだった。