かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『明日は遠すぎて』

 

献本に応募したのは、著者がナイジェリア出身だと知ったからだ。
既に3冊目の邦訳本だというが、私はこれが初めての出会いだった。

自分がよく知らない国を舞台に繰り広げられる物語は、本を手にする前から好奇心をかき立てられるものだけれど、例えば、欧米の作家が描くアフリカやインドなどのエキゾチックな物語には、どこか不自然な違和感を感じてしまうことも多い。
だからこそ、その国の出身作家が紡ぐ物語に興味を持ったわけなのだが、ページをめくりはじめたとたんに自分の思い違いに気がついた。


妹である自分の方がうまくやれるのに、従兄弟の方が優れているのに、跡継ぎだからというだけで、兄がもつ優越感と、兄を特別扱いする祖母への嫌悪。
アメリカの大学で学んだ後帰国した娘と、見栄や因習にこだわる母との結婚式をめぐる意見の対立。
アメリカの留学生と不法滞在者との交わり。
高学歴であることいかせず、むしろそれを隠すように、アメリカでベビーシッターをするナイジェリア人の女性。
自分と息子を守ろうとしてした選択が、結果として息子を他人のようにさせてしまったと嘆く母親。


収録されている9つの物語にそれぞれに描かれるのは、家族や恋人たちの日常であり、主人公たちが人生という道を模索する旅でもある。
それらの物語は、舞台がナイジェリアだから、あるいはナイジェリア人の話だからという興味本位の関心で私を惹きつけるのではなく、一人の人間として、とりわけ女性として大いに共感できる完成度の高い物語だったのだ。


読みすすめていくうちに、ナイジェリアには、賄賂や汚職が横行していたり、警察が当たり前のように暴力をふるうことや、白人と黒人との混血に間違えられることを喜ぶ者がいる一方で、それを軽蔑する者もいること、ブリティッシュ・エアウェイズ のエグゼクティブクラス専用カードに、溢れんばかりにマイルをためた人特有の「訛り」があることなどを知ることになった。


けれどもそうした事柄は、あくまでも物語の背景に過ぎず、背景を丁寧に描くことで、物語はより現実的になり、登場人物たちをより活き活きと引き立たせる効果をもたらしているにすぎない。
つまり私には、これらの物語はナイジェリアが抱える問題を告発するために描かれているわけではないように思われたのだ。


『ジャンピング・モンキー・ヒル』という作品の中で、「アフリカ作家のワークショップ」に参加した若きナイジェリア人女性は、自分の実体験を綴った短篇を発表すると、主催者で「リアルなアフリカに敏感でありたい」という年配の白人男性に批判される。

「現実の生活ではそうじゃない、だろ?女たちがそんな下品なやり方で犠牲になることは絶対にないし、もちろん「ナイジェリアではありえない。ナイジェリアでは女性が高い地位に就いている。今日日もっとも権力のある大臣は女性だ」


「すべてがありえないことだよ」といいきる男に背を向けて、涙をこらえて立ち去る主人公を追いかけて、その肩を抱きながら「大丈夫、どこにでもわからない奴はいるものよ。あなたの作品はすばらしいわ。」と言ってあげたくなる。


そうこの本は、私にとって未知の国であるナイジェリアを描いているから面白いのではなかった。
私は、同じ人として、とりわけ女性として、物語に魅せられたのだ。

そう思ったから、そう書いて、この書評を締めくくるつもりだった。
けれども自分の書いたものを読み返してみて気がついた。
アフリカの文学はきっとこんなだろう、あんなだろうと、偏見を持っていたのは他ならぬ私自身ではなかったか。


本読みにとって、著者や主人公、あるいは登場人物の誰かに好意を寄せたり、共感したりすることはごく当たり前のことではないか。
その当たり前のことに新鮮に感動したそのこと自体が、すんなりとそうはならないかもしれないと、心のどこかで思っていた証拠ではなかったか?と自問する。


今一度突き詰めて考えてみれば、やはりこの本は面白い。
良いものがたくさん詰まっている。
そしてそれは、○○だからという理由ではなく、幸不幸に関わらず、登場する女たちに向ける著者の視線に私自身が共感できたということであった気がする。

                   (2012年06月17日 本が好き!投稿