かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『半分のぼった黄色い太陽』

 

 

ナイジェリア出身の作家チママンダ・ンゴズィ・アディーチェが描いたこの長編小説が読み応え十分の文句なしに素晴らしい作品であることは、この本を読む前から知っていた。

数年前に読んだ短篇集『明日は遠すぎて』はため息をつくほど密度が濃く、あれこれと考えさせられるものだったし、この本の先行レビューはどれも書評自体に感銘を受けるほどだったから。

だからこそ、私はしばらくこの本を読まなかった。
読む前から既に高揚感を持っているようでは、物語自体を楽しめそうになかったし、「感動」を求めるために本を読むようで邪道な気がした。

いいかげん読もうと積読山から引っ張り出してきたのは、著者の新しい翻訳本が『アメリカーナ』が刊行されたからでもある。
それはさておき『半分のぼった黄色い太陽』である。


物語の舞台はビアフラ。
1967年から3年間だけアフリカに存在し、ナイジェリアに滅ぼされた幻の共和国なのだという。
小説のタイトルはこの国旗デザインに由来する。

物語は4部構成で、1部と3部に「六〇年代前半」、2部と4部に「六〇年代後半」が描かれ、年齢や性別や国籍の異なる3人の視点で語られる。
時制や多視点から立体的に描き出すだけでなく、作中作の導入など構成は複雑で巧みだ。
だが決して読み手を迷路に誘い込むような難解な作品ではなく、思わず登場人物達に感情移入してしまい、共に運命に翻弄されてしまいそうなほど情熱的な展開でもある。
歴史上の出来事を重要なモチーフにはしているが、ナイジェリア近現代史に予備知識がなくても全く問題ないはないはずだ。

大学の数学講師・オデニボと彼のハウスボーイ・ウグウ、イボ人の富豪を親に持つ双子の娘・オランナとカイネネ、カイネネの恋人英国白人のリチャードらを軸に、恋愛や家族関係、都市と地方、宗教対立、人種差別、民族主義、階層・階級問題、植民地主義、理想と腐敗等々、生き生きと生々しく描き出される物語は、数百万人が飢餓で死んだという絶望的な戦争を背負いながら進行していく。

一人一人丁寧に描かれた登場人物たちの心情は、文字で言い表されていないものでさえも、行間から伝わってくるほどに生き生きとしていて、その切なさや激しさが心に痛いほど。
これほど細やかなラブストーリーを読んだのは本当に久しぶりだ。
しかもこの物語のすごいところは、一組の男女の愛を綴るのではなく同時に同じぐらい重い比重を置いて、複数のカップルを描いているところにもある。
それだけでも十分感嘆に値するのに、さらに戦争という重く難しいテーマをも見事に描ききっているのだ。

様々なものを犠牲にしつつ、理想を掲げて戦う者たちが内と外の両面から崩されていくあれこれを描いた物語なら、たとえばロシア文学にも、あるいは南米の文学にもあったし、民族対立がもたらす激しい憎悪と凄惨な場面なら、旧ユーゴスラビアカンボジア、あるいは南アフリカを描いた物語などでも接したことがある。

それでもやはり、少しずつ形を変えつつも歴史上何度も繰り返されてきた醜く残酷な戦いを背景に描き出される人間模様に胸が痛む。
そうしたあれこれを踏まえた上でなおこの物語が特別なのは、描かれているナイジェリア固有の問題のせいだけではなく、そうした問題の告発を1本のペンに託しているところではないかとも思うのだ。

そもそも西洋の植民地支配の元にナイジェリアという国がどうして生まれたのか。
どのような状況の下で民族対立や大量虐殺が起こったのか。

西欧ジャーナリズムはなぜ、ビアフラの大地に横たわる多くの黒人の死体が目に入らないかのように、かの地で殺されたった一人の白人についての情報ばかり求めるのか。

彼らが死んだとき、あなたたちはそれを見なかったのか。
いやちがう。
雑誌に掲載された飢えた沢山の子どもの写真に涙を流して、そのあとその雑誌を閉じて、楽しげな話題と共に食卓を囲んだのではなかったか。

欧米各国は戦争に懸念を示しながらも、戦争当事者の双方に武器を輸出したのではなかったか。
食料の輸送ルートを確保する努力を本気でしなかったのではないか。
ジャーナリストたちは当事者双方の言い分を聞くことをせず、先に結論ありきの報道を続けたのではなかったのか。

作中作「私たちが死んだとき世界は沈黙していた」を読みながら私は思うのだ。
これは確かにナイジェリアのビアフラ戦争を描いた物語だ。
けれども同時に、この世界のあちこちで今なお起こっている争いとそれが引き起こす恐怖や飢餓に、あなたもまた目を背けてはいないかという問いかけなのではないかと。

読みおえた本を閉じて(ああ面白かった!)と、忘れてしまうべきではないと、本が叫んでいるのではないかと。

           (2016年11月29日 本が好き!投稿)