かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『百年の孤独』

 

長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思いだしたにちがいない。


そう語り始められた物語なら普通、クライマックスにはアウレリャノ・ブエンディア大佐なる人物の処刑シーンが展開されるに違いないと、凡人の私は思い込む。

けれども、なにか押し殺したような抑え気味のトーンで始まるこの物語は、時間軸をゆるゆると前後左右に揺り動かしながら、帰着点が見えぬままに蕩々と流れていく。

大佐の両親であるホセ・アルカディオとウルスラのなれそめや、二人がなぜそれまで住んでいた村を出て、マコンドの村を築くことになったのか、あるは大佐とその兄の生い立ち、彼らの恋、それぞれの歩んだ道、そしてその子、その孫の世代の……と、あちこちに視点を写しながらも、鮮やかに描き出されるのは、マコンドに住み着いた一族の物語なのか。
冒頭から独特の存在感を示す大佐ですら、その壮大な物語の中では、一人の小さな駒でしかないかのようだ。

チョコレートを飲んで宙に浮いてみせる神父や、シーツと共に天に昇る美しい娘など不可思議なエピソードにもことかかないが、それはそれ、かの地なら不思議も不思議で無いような、そんな気にさえなってくる不思議。

物語のバックに流れる音楽が、ジプシーの歌から始まって、自動ピアノにアコーディオン、クラビコードと変わるように、登場人物たちも世代を変え人を変え、少しずつ形を変えて物語を繰り返す。

世代が変わり、孫、子の代になっても、人びとの戸惑いや苦悩は変わらず、人生という物語は変奏曲のようにほんの少し形を変えて繰り返されるのだ。

まるで輪廻のように永遠に繰り返されるかと思われた物語は、読み終えてみればそうでしかあり得ないというある出来事によって終焉を迎える。
それは一人の人間の人生だけでなく、一族の、そしてマコンドと呼ばれた村の、その記憶の、すべてのものの終わりでもあったという。

そうして、最後のページをめくって私は思う。
これは大佐の物語ではなく、ある一族の物語でも、ある時期賑やかに繁栄を極めたある家の物語でも、マコンドという名の村の物語でもない。
自分自身を愛してやまない、人の性(さが)を描いた物語なのではないかと。
そしてやはりこの物語そのものも、実は終わっていないのではないかと。
あるいはどこかで今このときにも……。
                    (2014年07月26日 本が好き!投稿