かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『男と女を生きた作家: ウィリアム・シャープとフィオナ・マクラウドの作品と生涯』

 

ジョージ・エリオットの名で知られるメアリアン・エヴァンズやブロンテ姉妹をはじめ、19世紀半ばに見られるイングランドの女性作家による男性の筆名使用の背景には、想像に難くない理由がある。

それはつまり、本書で紹介されているショーウォルターの言葉を借りれば、19世紀の女性作家たちは同時代人にとって第1に女性であり,芸術家であることは二義的なことにすぎなかった。女性小説家は男性の筆名を用いて身を偽らないかぎり,批評家の目が自身の女性性ばかりに向い、作品の主題や形式がいかに多様なものであれ、当時の他の女性作家と同列に扱われることを覚悟しなければならなかったからに他ならない。

そう考えたとき不思議でならなかったのは、ウイリアム・シャープがなぜ、あえてフィオナ・マクラウドという女性の筆名を用いて、作品を発表し続けたのかという点で、その理由が知りたくて本書を手に取った。

シャープは、作品を発表する際にマクラウドの名を用いただけでなく、実生活に置いても、マクラウドとして、男女問わず様々な人たちと文通をしたりと、なりきりぶりを発揮したと聞いていたので、実を言うと私はこの本を読むまで、作家が自分の属性に関する悩みを抱えていたのではないかと勝手に考えていたのだが、どうやらそういうことではなかったらしい。

本書にはシャープ以外にも、男性作家が女性名で作品を発表した例が挙げられていて、その分析によれば、男性作家の多くは本名による執筆活動を経た後に女性名を用いる場合が多く見られ、総じて必要に迫られて男性名を名乗った女性作家に対し、男性作家の女性名使用は真剣味に欠け、遊戯的、実験的要素が強いと評されてきたのだという。

そうした事例を具体的な作品をあげながら、紹介した後、それではシャープはどうだったのか、という本題に入るのだが、これは非常に興味深かった。

既に詩人や作家としてより批評家として成功していた彼は、批評家の肩書きが作品の評価に影響を与えることを懸念して、先入観抜きに作品を評価されることをのぞんでいたというのだ。
また、当時は「新しい女性」の進出で、女性作家に注目が集まり始めていたため、シャープのこの行為は時流に乗るものでもあったのだという。
そしてなによりも女性性に対するシャープの強い関心があった。

シャープとマクラウドそれぞれの名前で発表された作品を具体的に分析しながら、作者の深層心理に迫る手法は非常に興味深く、とりわけ、ユダヤ人やロマ、ケルトの民といった社会でマイノリティに位置づけられる人々に親近感をもち、そうした人々を高度な精神性や自然との親和力をもった存在として登場させるマクラウドの作品を丁寧に読み解いていく。

読んでいるうちに、彼にとっては女性もまた、社会的マイノリティとして位置づけられた存在であったのかもしれないという気もしてくる。

本当のことを言えば、積んだままのマクラウド関連本を読む前に、前々から気になっていたこの本をと手を伸ばしたのであったが、またまたどっさり、読みたい本のリストを伸ばしてしまった。