かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『オルガンのあった場所』

 

申京淑(シン・ギョウンスク)のことは、津島佑子との往復書簡を刊行した韓国の作家として知ってはいたが、作品を読むのはこれがはじめて。

訳者のあとがきによれば、1985年に22歳でデビュー、出した本をほとんど全てがベストセラーになる作家で、“韓国文学を語る上で欠かせない重要な作家のひとり”なのだという。
確かにその略歴をみると李箱賞をはじめ、様々な文学賞を受賞していて、日本でもいくつかの作品が翻訳されている。

本書はそんな作家の日本初の短編集で、これまでの作品の中から、作家と訳者が相談して選んだ7篇の作品を収録した、日本版オリジナルの短編集だという。


表題作「オルガンのあった場所」は、妻子ある男と恋愛関係にある語り手が、ひとり故郷に帰って恋人に宛てて書いた手紙。
「ジャガイモを食べる人たち」は、入院中の父親を介護している語り手の女性が、先輩にあたる女性に宛てて書いた手紙。
いずれも手紙の形式をとってはいるが、おそらく出されることはないだろうと、語り手も読者も思っている。

「草原の空き家」は、ツタに覆われた一軒家にまつわるホラー風味の作品で、「彼がいま草むらの中で」は、重い腰をようやく上げて実家に帰ったままの妻に会いにいく途中、人気の無い場所で自損事故を起こして草むらに放り出された主人公が、奇病に冒された妻のことをはじめてじっくり考えるという話だったりする。

というように、いずれの作品も別れや苦悩を描いた悲しいトーンの物語ではあるのだが、自然の描写や人々の営みの描き方がとても美しく、読み心地も後味も悪くない。


実を言うとこの本を読みながら、頭の隅でずっと考えていた。
“オルガンのあった場所”という言葉が表現する感情について。
“オルガンのあった場所”を思い浮かべるときに、人の心の中に湧き上がるであろう感情について。

さびしいとか悲しいとか、せつないとかやるせないとか、うれしいとかなつかしいとか、言葉にしてしまうと、なんだか少しちがうような気がしてしまう気持ち、そういう複雑な心境を、そういう言葉を使わずに語り上げることこそが、物語を書くということなのかもしれないな…などと、思ったりした。


<収録作品>
庭に関する短い話/草原の空き家/鳥よ、鳥よ/オルガンのあった場所/彼がいま草むらの中で/ジャガイモを食べる人たち/暗くなったあとに