一週間前、私はマンションの広場でキックボードを盗んだ。
そんな書き出しで始まる物語の主人公は、夫とふたりで暮らす初老の女性。
一人娘は、アメリカ留学後、彼の地で就職していて、めったに会うことができない。
ブランコの脇に置き去りにされていたキックボードを持ち帰った彼女は、夫が寝付いた後、こっそり家を抜け出して、キックボードに乗るようになる。
昔はあんなじゃなかったのに、あの人なんであんなふうになったのかしら。
テレビに向かって悪態をつき、便器の水を流していないと小言をいうと、説教もいい加減にしろと大声で怒鳴る、キックボードに乗っていると、そんな夫への積もり積もった憎しみが少し消えていくような気がした。
けれどもいつもより少し遠くへ足を伸ばしたある夜、勢い余って転倒してしまう。
足を持ち上げようとしても動かせず、上体を起こそうとするも全身に鋭い痛みが走って身動きが取れない。
助けを呼ぼうにも人影もなく、やがて雨が降り出して……。
道に横たわる彼女の脳裏に浮かんできたのは、夫のこと、父のこと、母のこと……これまで歩んできた人生のあれこれだった。
人生の一コマを上手に切り取ったようなそんな情景の中に、一人の女性の生い立ちや結婚生活や、折々の複雑な心情が鮮やかに浮かび上がる。
うまいなあ、と思わずうなる。
でも、それだけじゃない。
人気の無い夜の道を思い切り蹴って進んでみたら、胸に溜まったあれこれが少しは晴れたりするかしら?
もしも地面に倒れ込んだのが彼女ではなく私だったなら、思い浮かべるのはどんなことかしら?
思わず目を閉じて考えずにはいられないような、読み手の心に問いかけてくるものがそこにあった。