かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『ノーサンガー・アベイ』

 

キャサリン・モーランドを子供時代に見かけたことがある人なら、誰も彼女がヒロインになるために生まれてきた人だなどとは思わなかっただろう。
こんな書き出しで始まる物語の原稿は、1798年、ジェーン・オースティンが23歳の時に書き上げられた。当初のタイトルは『スーザン』だった。
1803年には首尾良くとある出版社に買い上げられ広告まで出されたが、どういうわけか出版には至らなかった。
結局この原稿は13年後に、作者が買い戻すことになった。
この間に人気作家になっていたにもかかわらず、その後すぐに出版に至らなかったのは、別の作家による同じタイトルの小説が出回っていたからという理由だけでなく、改めて手を入れようにもあれこれ手直ししづらい事情があったからだったようだ。

読みすすめてみればわかることだが、この物語は、フランシス・バーニイやアン・ラドクリッフといった原稿執筆当時流行していた女性作家たちの小説を皮肉ったパロディという側面をもっている。
ところが出版に手間取っている間に時が経過し、ゴシック調の感傷小説のブームは去ってしまっていた。
機を逃したためにパロディとしての面白さが減じてしまった、と作家は考えたようだ。


実を言うとこの物語は、10代の頃からオースティン作品を愛読してきた私にとっても、今ひとつ、ぱっとしない印象の作品ではあったのだが、今回、#やりなおし世界文学 読書会を契機に、あらためて本棚の奥から引っ張り出して読んでみると、(なにこれ、この面白さは!)と驚かされた。

なんといってもオースティン、最初から最後までノリノリなのだ。

冒頭でヒロインの(スーザン改め)キャサリンを紹介するくだりからしてなかなかだ。
父親は世間から見放されているわけでも、貧乏でもなく、それなりの資産をもった牧師で、母親は気立てもよく丈夫で、ヒロインを生んですぐに他界してしまうようなこともなく、その後も子供を産み続け、なんと10人の子持ちだという。
家族に子供が10人もいれば、立派な家族と呼ばれる資格がある。頭にしろ、腕にしろ、足にしろ、数だけは十分にあるのだから。
だがモーランド家にはそう呼ばれる資格がそれ以上はなかったし、キャサリン自身にもヒロインの資質とよべるものはほとんどなかった。
なにしろ、「教えてもらうまでは何も覚えられないし、何も理解できなかった。時には、教えてもらってもだめだった。」と散々のいいようだ。

才能も教養もなく、大切なことは皆通俗小説から学んだまあまあ器量のいい17歳の娘が、バースに保養に行くことになった地元で一番裕福な夫婦に同行することになったことから、物語はようやく幕ををあける。

田舎の村では決して体験できないあれこれ、バースに来なければ出会うことがなかったであろう人たちとの交流。
やたらと親友風を吹かせる女ともだち、強引につきまとう勘違い男、そしてお約束の恋。
第一部では、キャサリンのバースでの非日常が語られる。

場面変わって第二部は、恋しい男性ヘンリーの実家、ノーサンガー・アベイの滞在記。
なんとキャサリン、ヘンリーの父親ティルニー将軍に気に入られ、館に招待されたのだ。
元は修道院だったというこの館!
まるで夢中になって読んだあの小説の舞台のようではないか!
ああもしや、ここにも怪奇が!!
……と、キャサリン、まずは、恋よりもオカルトに熱を上げてしまう。
オカルトから恋、恋からその先へと順調に進むかに見えたが、やはりここでもう波乱あるのもお約束。

お約束ではあるが、もちろんそこここに皮肉がたっぷりちりばめられている。
たとえばこんな具合。

 美少女の場合には、生まれつき愚鈍であるほうが得であることは、先輩女性作家の見事なペンによってすでに明らかにされている(注釈略)--そこで先輩がこの件について述べたことに、私は、男性諸君のために、ただ次のことを付け加えることにしよう。すなわち、大多数のつまらぬ男性にとって、女性の愚鈍さは、個人的魅力としておおいに魅惑的なものであるが、男性の中には自身があまりにも理性に恵まれ、あまりにも物知りであるために、女性には無知以外の何ものをも求めないという人間もいる、ということである。だが、キャサリンは自分の利点を知らなかった……


そこまで言っちゃう!?と苦笑いするこういう場面もあるが、そういう点も含めて楽しい。

しかもこれ今読むとまさに、王道をいく“ヒストリカル・ロマンス”という感もあり、いいんじゃないだろうか、今どきの若い人に薦めてみても……という気がしてきた。