かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『家の本』

 

タブッキやジュンパ・ラヒリが認めるイタリアの偉才。
白水社エクス・リブリス、78冊目にして初のイタリア文学。

そう聞けば、読まないわけにはいかない!と、心躍らせ手に取った本。

第一章 地下の家、一九七六年
 最初の家は、寝室が三つに、居間、台所、シャワー室がひとつずつという間取りだった。子ども、ここではまず「私」としておくが、彼の寝室は実際には、小型の折りたたみ式ベッドを運び込んだだけの物置だった。


物語はこんな風に始まる。

全部で七十八章、その全ての章に、「地下の家」「家族の家」「山のふもとの家」「貫通の家」「言葉の家」などという家の名前と、年号が組み合わされたタイトルがつけられている。
どの章も中身は濃厚で、「私」が生きてきた時間と空間を浮かび上がらせる印象的なシーンが描き出されているが、一つ一つの章は数ページと短く、年代順に並んでもいない。

その一章一章をまるでパズルのピースを一つ一つ取り上げて吟味しながら、頭の中で再構成していくと、「私」と「私」に連なる人々の人生が浮かび上がってくる。

掌編の積み重ねで構成されているという点では、ラヒリの 『わたしのいるところ』に似ているかもしれない。
過去と今とこれからの境がどこか曖昧で、夢と現実にどれほどの違いがあるのか分からなくなりそうなのにとても切ないという点では、 タブッキに似ているのかもしれない。

けれども、そのどちらとも、今まで読んだどの物語とも違っている。

なにより一つの建物でも土地でも時でもない、「家」という空間で人生を捕らえるというその語り口に驚かされて、私は思わず自分の家の歴史をもふりかえる。

不思議な読み心地の本だった。
この先何度か訪れることになるだろう「家」だった。

訳者あとがきで紹介されていた、著者の「師」であり、かけがえのない友人でもあったというアントニオ・タブッキとの思い出に捧げられた小説「私がわかりますか」(Mi riconosci, Feltrinelli)の翻訳も待たれる。