かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『ロリータ』

 

ナボコフの作品はこれまで何作か読んだことがあるが『ロリータ』を読むのはこれが初めて。
もちろん『ロリータ』がナボコフの代表作の一つであることは知ってはいたが、これまでどうにも食指が動かなかったのは、そのスキャンダラスな評判以上に、改めて読むまでもなく大まかなストーリーは知っていると思い込んでいたからでもあった。

小児性愛の性癖を持つ中年男の目を通して語られる、幼い女の子との「恋愛」物語で、その逃避行がロードムービー的な要素も持っている”というのが、本作を読む前の私の認識で、この勘違い男が、自分の「恋」を美しく歌い上げたがために、同じような勘違い男たちがお墨付きをもらったような気になったのだろうし、そういう意味ではナボコフにもある程度責任があるのでは、などとも思っていた。

ところが、実際に読んでみるとこれが、聞きかじりから想像していたような話ではなくて、思わずナボコフに謝りたくなった。


物語は、刑事裁判を控えた男ハンバートが、陪審員や裁判官に「真実」を訴えるためにと書き始め、筆を進めるうちにこの大作は後世に読み継がれるべきものだと確信し、当事者である「ロリータ」の死後という条件付きで出版されるように弁護士に託した原稿だという設定だ。

ハンバートの考えでは、ロリータは自分よりずっと若いのだから、自分が死刑にならなくても、ロリータが死ぬ頃には自分も生きてはいないだろうというのだった。

ちなみにハンバートは公判期日の直前に病死してしまったがために、この手記が裁判の証拠として提出されることはなかった……ということになっている。


フランスやオーストリアの祖先を持つ父と英国人の母との間にパリで生まれたハンバートは、3歳の時に不慮の事故で母を亡くし、初恋の相手は幼くして病死する。

こうした経歴を書き連ねて、陪審員の同情を買う作戦かとおもいきや、そうでもなさそうで、数ページ後には

9歳から14歳までの範囲で、その二倍も何倍も年上の魅せられた旅人に対してのみ、人間ではなくニンフの(すなわち悪魔の)本性を現すような乙女が発生する。そしてこの選ばれた生物を、「ニンフェット」とよぶことを私は提案したいのである。

なんてことを書いていたりする。

流れ着いたアメリカの地でニンフェットを見いだした男は、勝手に“ロリータ”と名付けたその少女と一緒に居たいがために、少女の母親と結婚する。

母親は母親で新婚生活に邪魔な娘をキャンプにやり、新学期からは寄宿学校にいれよう画策する。
そんなことになったら、ロリータと一緒にいられなくなるではないかとあせる男と、夫の様子を不審に思って、その秘密を探り出す妻。
彼の目当ては自分ではなく娘だったと知り、行動を起こそうと立ち上がったとき、妻は不慮の事故で亡くなってしまう。

あまりにもできすぎだと思いつつも、母親がいなくならなければ、ロリータとの逃避行にはならないだろうと無理矢理納得して読み進める。

はなから「信頼できない語り手」として読者の前に登場するハンバートが語るのは、睡眠薬をもって少女に暴行を働こうとしたり、少女に母親の死を知らせないまま危篤の母に合わせるなどといって連れ回したり、身寄りを無くした少女を強迫していうことをきかせ、暴力を振るい、繰り返しレイプするというぞっとするような話ばかりで、これが全部、彼の妄想であるならいいのにとさえ思う。

いったいこれのどこが、美しい物語なのだ?

ロリータと名付けられた少女が、自分を愛していないことなど百も承知のはずなのに、きらいきらいも好きのうちだとでも思っているのか?
多少反抗的でも自分の力でねじ伏せられる相手だからこそ、少女を愛するのだろうか?
いやそうではない。
この男、彼女の気持ちなどどうでもいいのだ。
ハンバートが少女の母親にしたことを考えれば、愛だの恋だのという前に、彼が関心を寄せるのは自分の欲望だけで、他人のことなど心底どうでも良いのだとしか思えない。

ハンバートが語るロリータは、下品な言葉を平気で口にするどこまでも生意気な不良少女だ。
だがそう語られてはいても、行間に浮かび上がる少女は純然たる被害者で、強迫と暴力で押さえ込まれ、身体の自由だけでなく名前さえも奪われながらも、孤独と恐怖に必死に耐えて、ついに自らの意思で魔の手を逃れることに成功する痛ましくもたくましい女の子だ。

そう考えれば、凡庸で身勝手な女のように描かれている少女の母親の実像もまた、ハンバートが読者の頭に植え付けたそれとは違ったものであったかもしれない。

そう彼は信頼できない語り手だ。

一人の男の傲慢な欲望によって、何もかも奪われたかに思えた少女が、不屈の精神で自分自身を取り戻そうともがいたもう一つの物語が、男の独白から浮かび上がる。