かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『十一月の嵐』

 

7年ぶりに刊行されたフラバルコレクションとあっては読まないわけにはいかない。
このコレクション、作家の自伝的要素の強い作品が続いていたので、
『時の止まった小さな町』の、
あのやんちゃな若者がどんな風に作家になっていくのか、楽しみでもあった。
だが、読み始めてすぐに、そういう話ではないと気づく。

フラバル行きつけのビヤホール『黄金の虎』に
彼目当てにやってきたアメリカ人のチェコ文学研究者
エイブリル・ギフォード(=卯月さん)。

1989年、70代半ばの作家によって書かれたこの短編集には、
この卯月さんに宛ててフラバルが書き綴った手紙
という形式をとった作品群が納められている。

語り手のフラバルは妻に先立たれ
死に方についてあれこれ思い煩っている老齢の作家で、
自伝的要素も多分に含んでいるという。

連作短篇のようにも読めるが、
時系列や細部の設定そのものは必ずしも一致しておらず、
そうしたズレがまたどこか別次元に迷い込んでしまったような
独特の読み心地を醸し出してもいる。

プラハで卯月さんと知り合い、
彼女が企画したアメリカの大学への講演ツアーに招聘されて
社会主義国チェコスロヴァキアを飛び出してアメリカ各地を廻る作家は、
旅先で様々な著名人と会い、あれこれと論じあう。

自らをカフカの後継者と位置づけ、
ジャック・ケルアックを引き合いに出し、
スーザン・ソンダクと語り合うといった、文学論的な側面も興味深い。

その一方でプラハで起きているビロード革命について、現在進行形で語り、
過去に遡っては、ナチスによる侵攻、プラハの春、その挫折……といった
歴史的背景の元での
フラバル自身や、作家や映画監督や俳優たちそれぞれの処し方にも言及する。

気持ちの良い、素敵な若い人たちばかりが亡命したのは、
とても悲しいことです……。
クンデラも亡命者になりました。
彼はプレイボーイで、書くことと話すことが上手で、
彼がナーロドニー大通りを歩いていると、
女の子たちだけでなく、チェコ文学愛好者はみんな、
彼の方を振り返ってみたもんです……



こんな風に様々な人の選択について語りながらも、
自分がなぜ「自己批判」的声明を出してまで、
チェコで執筆活動を続ける選択をしたのか、
その選択のためにどれほど多くの仲間たちから非難を浴び続け、
そのことが老年期を迎えた自分にとって
今なおどれほど激しい痛みとなっているのかということも率直に語っている。

気になるのは、一連の作品のマドンナ役ともいえる卯月さん。
年中寝坊している作家の孫でもおかしくないほどの若い女性なのだが、
渡米したフラバルの行く先々に、もう着いたか、まだ着かないのか、と
しつこく電話してくるくせに、一向に作家の前に姿を現さない。
この奇妙な設定の研究者が体現しているものは、なんなのだろうかと、
読み終えた後も結論を出せずにいる。