かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『忘却についての一般論』

 

 

 

現代アンゴラ文学ときけば、
常日頃から“本で旅する世界旅行”を趣味にしている私としては見過ごすことはできない。
と、いいつつも、読み始める前にアンゴラという国がどこにあるのか
今一度地球儀で確認する必要はあったのだけれど。

2013年度フェルナンド・ナモーラ文芸賞を、
2017年度国際ダブリン文学賞を受賞しているというこの作品は
稀代のストーリーテラーとして知られる現代アンゴラ作家による傑作長篇とのこと。
翻訳は 『ガルヴェイアスの犬』で第5回日本翻訳大賞を受賞している木下眞穗さんだから
これまた安心安定&面白いとお墨付きをいただいたようなもの。

ということで、早速アンゴラへと旅だった。


ルドヴィカは、昔から空が苦手だった。
そんな一文から始まる物語は、
両親を相次いで亡くして以来、
姉の庇護の元に暮らしていたポルトガル生まれの女性ルドヴィカ(ルド)が、
姉の結婚に伴い、母国ポルトガルを後にして
鉱山技師をしてい義兄がアンゴラの首都ルアンダに所有する
高級マンションの最上階に移り住むところからはじまる。

家事一切をひきうけたルドと、
姉夫婦と犬一匹の異国情緒溢れる生活が描かれるのかと思いきや、
時を移さず、治安が急激に悪化する。
長年にわたりポルトガル支配下にあったアンゴラでは
解放闘争が激化し、1975年ついに独立を宣言するに至ったのだ。
その混乱のさなか、姉夫妻が消息不明になり、
外部からの襲撃を恐れたルドは、自宅のドアの前にセメントの壁を築き
愛犬のとともに籠城、自給自足の生活を始めるのだった。

そう聞けば、数週間、或いは数ヶ月間の話だと想像するのが“常識”だと思うのだが、
その長さなんと27年。
アンゴラが泥沼の内戦状態にあったその間ずっと、
誰からも忘れられて、誰にもその存在を知られずに、
孤独に暮らした女性の物語だというのだ。

そうであるならば、このタイトルからしても、
内省的な物語なのに違いないと、
またまた予測を立てて読み進めると
主人公であるはずのルドは、部屋から一歩も出ていないにもかかわらず、
新たな登場人物が次から次へと現れる。

いったいこの人物が、ルドにどう関わっていくのか?
と首をかしげたと思えば、
この人まさか、あのときの人では?と勘ぐってみたり。

気がつけば運命の糸はあちこちで交差していて
すべては驚くべき大団円へ。

いやはや、全く恐れ入った。
読み終えた直後に、もう一度最初から読み返したくなる。
脇役であるはずのあの人この人にも
是非とも聞かせて欲しい物語がありそうで、
もうひとつの、あるいはもう2つ、3つの、
アナザーストーリーを語って欲しくてたまらなくなる。

あの伏線、この伏線の見事な回収を改めて確認したくなって
再び冒頭に戻ってページをめくり始めると
人々の行動の背後に
長く植民地とされた地域の苦悩や
支配してきた側と支配されてきた側の確執や、
人種や民族や思想や、その他様々な割り切ることの出来ない葛藤が
見え隠れしていることに気づいて圧倒される。

 

一人の女性の物語のようでいて実は群像劇で、
狭い空間の話のようで世界の歴史を語っていて、
物語はいつも予測を裏切り、
彼女は眠りながら眠っている夢を見る。
それでもやはり目覚めるとそこには厳しい現実があって。

 

おそらくこの先何度も読み返すことになるだろう作品。

と同時に、訳者あとがきで紹介されていた
同じ作者による“ボルヘスの生まれ変わりのヤモリが語り手”だという作品をはじめ
早くも次の翻訳刊行が待ちどおしくもある。

 

『ガルヴェイアスの犬』

 

 時々、翻訳小説が苦手な理由の一つに
登場人物の名前が覚えられないということを挙げる人がいるけれど
一度に何冊かの翻訳小説を並行して読み散らかしている私は
そのいい加減な性格のせいでもあるのだが、
元々、登場人物の名前を積極的に覚えようという気が無い。

物語の終盤になって、
あらこの人のこの名前、本人の役どころを象徴していたのか!などと
気づいて驚いたりすることもあるけれど
たいていの場合、登場人物の正確な名前を把握していなくても
物語を読み進める上でたいした支障はないと思っている。

そんないいかげんな私だから、
登場人物の相関図を作りたい!などと思ったことがあろうはずもない。
源氏物語を読みふけっていたときは、相関図の必要を感じたが
これはそれ、ちまたに沢山の関係図が溢れていたから
わざわざ自分で作らなくても参照すればいいと割り切った。

だから本を読みながら、相関図を作りたいと思ったのは
もしかするとこれが初めてかもしれない。

とはいえ、複雑な話だというわけではないのだ。

ただ、登場人物と登場する犬が多く、それぞれが少しずつ、
なんらかの形で関わりがあるというだけで。
いくつものエピソードがゆるやかに関わり合っていているというだけで。


物語の舞台はポルトガルのガルヴェイアスという小さな村だ。

1984年1月のある夜、この村を猛烈な爆音が襲う。
村人たちを恐怖に陥れたこの爆発音は、
村のはずれの原っぱに墜ちて巨大な穴をつくった物体によるものだったことが判明する。
「名のない物」と呼ばれるようになるこの物体がいったいなんなのか、
どこからきたのか、どんな形状のものなのか
どんなにページをめくっても明らかにされることがない。

ただ、あれが降ってきて以来、なにかが変わってしまったのだ。
パンの味も、いろんなものの臭いも、人々の中にあるなにかさえも。
そしてそのことを一番敏感にかぎとっていたのは犬たちだった。

物語の中で経過する時間は、
「名のない物」の出現からの約10ヶ月ほどの間にすぎない。
けれどもその10ヶ月の間に
あの人にもこの人にもあの犬にもいろいろなことがある。

ある老人は50年前に仲違いした兄を殺す決意をするし、
ある女性は夫の浮気相手に強烈な“爆弾”を投げつける。
新しく赴任してきた教師は嫌がらせをうけ
貧しい少女は訳もわからぬうちにレイプされ
犬が毒入りのエサを食べて死ぬ。

事故は起こるし、濡れ衣は着せられるし……
どうしようもない人々が次々登場し
次から次へと不幸は後を絶たない。

そしてまたもちろん
なんらかの「事件」が起きるまでには様々な積み重なりがあるものなのだ。

村人たちそれぞれの人生の一コマを覗き込みながら
その事件はあのエピソードから繋がっていたのか!
これはあの伏線だったのか!
などと本人たちの知らないところで驚いてみたりする。

ガルヴェイアスは
広大な宇宙の中ではもちろん
ヨーロッパの中でも
ポルトガル国内においてでさえ、
小さな、小さな村だ。

けれどももちろん
そこには人々の営みがあり
村人一人一人の人生がある。

一見何の関わりもないような小さな出来事の積み重ねが
一つの事件へと繋がっていくように
一読して強い衝撃を受けるというよりも、
行きつ戻りつしながら
何度か読み直しているうちにじわじわと面白さがにじみ出てくる
そんな1冊。

私がこの物語に出会ったことも
どこかで誰かのなにかに繋がって行くに違いない
そんな風に思える1冊。

       (2018年8月30日 本が好き!投稿)

『「世界文学」はつくられる: 1827-2020』

 

「世界文学」はつくられる: 1827-2020

「世界文学」はつくられる: 1827-2020

 

 “「世界文学」とはなにか”と題される序章からはじまる本書は、およそ380ページにわたって展開される、比較文学や翻訳研究が専門の著者による学術論文集だ。

「世界文学」という呼び名でいったいなにが名指しされ、なにがどう読まれてきたのか。
日本とソヴィエト、アメリカにおける「世界文学」のありかたを、主にその地域で発行された「世界文学全集」や「世界文学アンソロジー」のような叢書やアンソロジーをとりあげて、翻訳、出版、政治、教育などの観点から分析し、その理念やあり方の歴史的意味を探っていく。

興味深いのはこうした研究にあたって著者は、(著者の言葉をそのままうけとるとすれば)本書に次々と登場する小説を「ほとんど読んでいない」ということだ。
文学作品に変わって引用され、主役となるのは全集やアンソロジーの目次だ。
そう聞くとなんだか堅苦しいイメージをもたれるかもしれないが、心配はいらない。
これがちょっと信じられないほど面白いのだ。


例えば“なぜ「イチヨー・ヒグチ」がアメリカ発の「世界文学アンソロジー」でもてはやされたのか”などと言われると、一葉の作品がアメリカで読まれていたことを知っていても知らなくても、本好きなら気になる人は多いはず。

様々な全集の目次は、私のようなリスト好きにはたまらないお宝でもある。
編者の思惑を想像しながら目次をみると「なんでそんなところにそれが入っているのか?」「なるほどそういう意図だったのかも!?」「それまだ読んでいないけれど、その並びで見るとなんだかめちゃくちゃ面白そう」などなど興味は尽きない。

そういった“本筋”ももちろんだが、“あのストルガツキーによる芥川解説!?”とか、“もしも三島が割腹自殺をしなかったら、「世界の評価」は変わっていたかも?”など“枝葉”の部分も面白い。


あえてことわるまでもなく、多くの場合、外語で書かれた文学は読者の母語に翻訳されなければ、読まれることはなく、翻訳されるという時点で既に何らかの意図を持って取捨選択がなされているわけで、その“わけ”を読み解くこともまた、翻訳文学とのつきあい方の一つでもあるのだと改めて思ったりもした。

2020年9月の読書

9月の読書メーター
読んだ本の数:13
読んだページ数:3611
ナイス数:564

マノン・レスコー (光文社古典新訳文庫)マノン・レスコー (光文社古典新訳文庫)感想
『文学こそ最高の教養である』からの派生読書。オペラの題材として大まかなストーリーは知っているつもりだったが,読んでみるとあちこちツッコミどころもあり,予想以上に面白かった。巻末の解説には『文学こそ…』とはまた違った興味深いあれこれが。ここから今度は『椿姫』にいくべきか,はたまた『無邪気と悪魔は紙一重』にいくべきか?どっちにも行ってしまいそうな自分がこわい(;゚ロ゚)
読了日:09月29日 著者:プレヴォ
サブリナとコリーナ (新潮クレスト・ブックス)サブリナとコリーナ (新潮クレスト・ブックス)感想
11篇の短編はいずれも、デンバーとその近郊が舞台。人口の三割以上がヒスパニック、ラティンクス、アメリカ先住民だというこの地域は、地域再開発による「高級化」が進んでいて、元々そこに住んでいた人びとが、その町に住み続けられなくなるという事態に見舞われているのだという。何世代にもわたって住み続けてきた家土地を奪われるその痛みは、収録作品の中にも繰り返し描かれている。そうこれは“移民”の物語ではなく、後から押し寄せてきた人たちの波の間で、溺れそうになりながらもがき苦しむ人びとの物語だった。
読了日:09月28日 著者:カリ ファハルド=アンスタイン
フィオリモンド姫の首かざり (岩波少年文庫 (2135))フィオリモンド姫の首かざり (岩波少年文庫 (2135))感想
祝 #岩波少年文庫 #創刊70周年 読書会に参加すべく手にした『針さしの物語』がなかなか面白かったので、メアリ・ド・モーガンの短篇集をもう1冊読んでみることに。なんといっても表題作が面白かった。この作者の一連の作品は、フェミニズム解読をしても面白いかも。他にもなかなか読み応えのある短編が6編。絶版のままにしておくのはもったいない1冊だ。
読了日:09月25日 著者:ド・モーガン
言葉に命を~ダーリの辞典ができるまで言葉に命を~ダーリの辞典ができるまで感想
“言葉の収集家”、ウラジーミル・ダーリ。全4巻20万語を収録した『現用大ロシア語詳解辞典』をたったひとりで完成させた人。本書は1801年に帝政ロシアに生まれ、およそ半世紀にわたり辞書を編纂し続け、晩年にはなんと14回も校正をした上でこの辞典を世に送り出したダーリの伝記だ。プーシキンの親しい友人で、ゴーゴリに絶賛された人でもある。そんな彼の伝記が、読み物として面白いだけでなく、「言葉」についてあれこれ考えさせられもするのは、ある意味当然のことだった。
読了日:09月22日 著者:ポルドミンスキイ
ありふれた祈り おいしいコーヒーのいれ方 Second Season IX (集英社文庫)ありふれた祈り おいしいコーヒーのいれ方 Second Season IX (集英社文庫)感想
#ナツイチ 読書会のため、10年、6冊分の中断を経て、最終刊だけ読んでも意味がわかるものだろうか?と思いながらおそるおそる読み始めたのだが、ここまでの様々な事情はこの最終巻だけ読んでもよくわかるように工夫されていた。それもダイジェストな紹介などという生やさしいものではない。読み始めてしばらくは、なんてこと!そんなことがあったのか!そんなことになっているのか!!と涙が止まらなくなって驚くはめに。ずっとごぶさたしていたのに、ちょっぴり苦いおいしいコーヒーを飲ませて貰った。
読了日:09月21日 著者:村山 由佳
魔宴魔宴感想
気になっていた本を書評サイト本が好き!を通じていただいた。酒に飲まれ愛に溺れ、自意識に苛まれ贅沢に明け暮れると同時に貧困にあえぐ、そんな自堕落な半生を描いた自伝的小説。読書量や知識は半端ではなく、鋭い文藝批評も読み応えがあるが、目を覆いたくなるほど破廉恥で、あり得ないほど自虐的、痛々しいほど寂しげで、どこか艶めかしい。読んでいるとすごく切ない気分にさせられるのに、この語り手を信頼して良いものかどうかとまどうほどにスキャンダラス。とにもかくにもものすごくヤバイ感じの本だった。
読了日:09月16日 著者:モーリス・サックス
砂漠が街に入りこんだ日砂漠が街に入りこんだ日感想
もしかすると人は喧噪の中にいればいるほど、寂しくなるときがあるのかもしれない。 “荷物をまとめようとしていたら、突然、何か重要なものをなくした気持ちに襲われるも、それが何なのかはっきりとはわからずに、何かを置いてきてしまったという感覚をどうしても払拭することができない。” おそらく、誰でもそんな気持ちになることがあるだろう。 でも、そう聞くと、自分もまたなにかをなくしたような気がしてきて、思わず当てもなく身の回りを探してしまう。 そんなあなたに、お薦めの1冊。
読了日:09月14日 著者:グカ・ハン
なんてやつだ よろず相談屋繁盛記 (集英社文庫)なんてやつだ よろず相談屋繁盛記 (集英社文庫)感想
#ナツイチ 制覇読書会に参加すべく読んでみた。うっかり手を伸ばしたら、シリーズものの1作目で、相談屋は開業はした者のちっとも繁盛していなかった。これは、行く末を確認するべきなのでは…と、またもや読みたい本のリストをのばすなど…(^^ゞ
読了日:09月10日 著者:野口 卓
針さしの物語 (岩波少年文庫 (2136))針さしの物語 (岩波少年文庫 (2136))感想
祝 #岩波少年文庫 #創刊70周年 読書会に参加すべく読んでみた。同じ作者の別の作品は大昔に読んだことがあったはずだけれど、こちらは初めて。“クラシックで幻想的な短篇集”というウリではあるが、伝承文学にありがちな残酷さや、おとぎ話によくあるような教訓めいた説教臭さはあまりなく、大方の予想をほんのちょっとずらしたような結末が面白かった。
読了日:09月09日 著者:メアリ・ド・モーガン
玉妖綺譚 (創元推理文庫)玉妖綺譚 (創元推理文庫)感想
Kindle沼を掃除していたら出てきたのがこれ。セールの時にでも購入したのか,石(玉)から生まれる玉妖だった。あの伝説,あのファンタジー,あの物語と,あれやこれやを掛け合わせたような設定がなかなか面白いが,登場人物の造り込みが甘いのか皆一様に軽薄すぎてせっかくの舞台がなんだか勿体ないような気がしないでも。続編を読めば主人公と作家,両方の成長が感じられたりするのかなあ?
読了日:09月08日 著者:真園 めぐみ
誰にでも親切な教会のお兄さんカン・ミノ (となりの国のものがたり4)誰にでも親切な教会のお兄さんカン・ミノ (となりの国のものがたり4)感想
『原州通信』を気に入って、この作家の作品はチェックしなくてはと思っていた。昔っから「あんな男はやめておけ!」といわれるような男に弱い私は、どうもかなり惚れこんでしまったようだ。こんなにダメ男を描くのが上手くて、面白いだけでなく深みがあって、サービス精神が旺盛な作家に夢中にならないわけにはいかない。もっとも私が惚れたのは、小説の中に登場する情けない人代表みたいな小説家のイ・ギホではなく、ダメダメ男を描かせると天下一品!の小説家のイ・ギホ氏の方ではないかと思うのだけれど、その境目がちょっと曖昧だったり…。
読了日:09月07日 著者:イ・ギホ
世界の文学、文学の世界世界の文学、文学の世界感想
なにがすごいって、様々な国や地域の様々な言語で書かれた17作品のうち、日本の1作品をのぞくすべてが、重訳ではなく、書かれた言語から直接、日本語に翻訳されているということ!もちろん中味も面白い。
読了日:09月03日 著者: 
夜の舞・解毒草 (新しいマヤの文学)夜の舞・解毒草 (新しいマヤの文学)感想
<新しいマヤの文学>第三弾はタイプの異なる2つの中篇を収録。リズムのある美しい言葉で語りあげられている「夜の舞」は,薄幸の少女の幸せ探しの旅物語。蜘蛛の企みやフクロウの鳴く意味などが幻想的な彩りを添え、人びとの暮らしぶりやその口にのぼる言い伝えなどがエキゾチックな雰囲気を醸し出す。「解毒草」は枠物語的な構造の連作短編で,幻想的でありながら描かれる女達の貧困と苦難が生々しい。今回も訳者あとがきが充実していて十二分の読み応え。幸運にも書評サイト本が好き!を通じていただいたものだが,この先何度も読み返すだろう。
読了日:09月01日 著者:イサアク・エサウ・カリージョ カン,アナ・パトリシア・マルティネス フチン

読書メーター

『サブリナとコリーナ』

 

 

サブリナとコリーナ (新潮クレスト・ブックス)

サブリナとコリーナ (新潮クレスト・ブックス)

 

 “短編の名手アリス・マンローを思わせるような作家”
“デビュー短篇集にして2019年全米図書賞最終候補作”
“ヒスパニック系コミュニティのやるせない日常を生きる女たちを描く”
そんな前評判を聞いていたから、
読み始める前は ダンティカと マンローを掛け合わせて
女性の視点から移民たちの過去から現在までの様々な悲哀を描いた
短篇集なんだろうと勝手に思い込んでいたのだが、
そもそもそれは全くの誤解だった。

収録されている11篇の短編はいずれも
アメリカ、コロラド州の州都デンバーとその近郊の町を舞台にしている。
人口の三割以上がヒスパニック、ラティンクス、アメリカ先住民だというこの地域は、
全米でも最低水準の失業率を誇っている一方で
地域再開発による「高級化」が進んでいて、
元々そこに住んでいた人びとが
その町に住み続けられなくなるという事態に見舞われているのだという。

何世代にもわたって住み続けてきた家土地を奪われるその痛みは
収録作品の中にも繰り返し描かれている。

そうこれは“移民”の物語ではなく、
後から押し寄せてきた人たちの波の間で、
溺れそうになりながらもがき苦しむ人びとの物語だったのだ。

何度も出て行っては不意に戻る年若い母親に傷つく少女、
黒髪に青い目の美しい娘に死化粧を施す彼女の従妹、
白人との結婚を夢見る妹と拒んだがために障がいを負うことになった姉…

登場する女たちの多くは、
若くして恋に落ち、あるいは恋を知らぬままに、子を宿す。
そしてまた、子どもが生まれるとき、父親の姿はすでにないケースも多い。

貧困の連鎖が若者たちの未来に暗い影を落としてもいる。
中には大学建設のために立ち退きを余儀なくされた人々の子や孫を対象とする奨学金
大学に通う若い女性を主人公とする物語もあるが、
彼女もまた複雑な状況に身を置いていた。

どの物語も、読みながら胸の痛みを感じるほど切ないが、
不思議と後味は悪くなく
この決して幸運に恵まれているとはいい難い女たちが
苦痛や哀しみに押しつぶされそうになりながらもがいている姿に
どういうわけだか、目頭だけでなく身体の芯も熱くなる。

読み終えてしまうのが勿体なくて、
一日一篇と決めて読み進めたが、
訳者あとがきまで読むと、
また最初から読み直したくなった。

知らない土地の、知らなかった人々の物語だ。
だがなぜだかとても身近に感じる物語でもあった。

 

『言葉に命を~ダーリの辞典ができるまで』

 

言葉に命を~ダーリの辞典ができるまで

言葉に命を~ダーリの辞典ができるまで

 

 

「彼は詩人ではない。話を創作する術を持たないし、創作する気もない……。書くものはすべて実際に現実から得たものそのままだ。小説家がおおいに頭を悩ませる発端や結末に頼ることなく、ロシアの地で起きたことや、目にしたことを取りあげるだけで、それがもう最高におもしろい物語になっている……」

 

「私に言わせれば、彼は物語作家を全部合わせたより力がある……。彼の書くどの一行もロシアの生活習慣と民衆の暮らしをよりよく理解させてくれ、私を教え、得心させてくれる」


他ならぬゴーゴリにそう言わしめた人物、それが“言葉の収集家”、ウラジーミル・ダーリ。
全4巻20万語を収録した『現用大ロシア語詳解辞典』をたったひとりで完成させた人だ。


本書は1801年に帝政ロシアに生まれ、およそ半世紀にわたり辞書を編纂し続け、晩年にはなんと14回も校正をした上でこの辞典を世に送り出したダーリの伝記だ。

ダーリの子どもの頃、ロシアの「上流階級」ではフランス語が常用され、「マダムとマドモアゼルは翻訳することができない」とすらされていた。
だがダーリの生家では話が違った。
両親とも多言語を司る家庭に生まれ育ち、自らも様々な言語に精通していたダーリだが、育った家庭は厳格なほど生粋のロシア語で満たされていたという。

生きものが皆、よい食物を摂取して己の血肉とするように、民衆の語る素朴で率直なロシア語を学んでそれを身につけるべきだ
生涯その信念を持ち続けることになった少年は、“物心ついて以来、ロシア語の文章語と庶民の話し言葉の不一致に落ちつかず心乱されてきた”。

父親の意向で海軍幼年学校に学び、卒業後海軍少尉となるも、ほどなく方向転換をして医学部に。
やがて戦争が始まり医学生も戦場へと駆り立てられることに。
規定の年数を満了していないが最優秀な彼は、研修医としてではなく過程を終了した医師として従軍、今度は陸軍だ。
結果としてこの従軍経験はダーリに貴重な蓄えをもたらすことになる。

彼は休みとなれば、いろいろな地方出身の兵士達をあつめて、これこれのものは何県ではどういうのか、別の件ではどうかなどと質問攻めにして手帳に書き留めていたという。

多くの民族が暮らす広大な国土。
その土地土地の様々な言葉やことわざや慣用句を集めて比べて整理するには、人々の暮らしを垣間見るだけでなく、その生活に分け入って溶け込む必要があった。

そんな「調査」の道程でプーシキンと知り合う。
プーシキンは民衆の言葉を学ぶことに強い関心を示し、このことがふたりを近づけた。ダーリがあの辞典に取りかかったのはプーシキンの強い求めによるものだったというのだ。

友情の証に形見として贈られたのは、詩人の命を奪った弾の貫通により穴の空いたフロックと、詩人が身につけていたエメラルドの指輪。
これをさするとわたしのなかに火花が散って、書きたくなるのです……とダーリは言う。

軍医を退き官吏になってからも、民衆の間で使われている生きた言葉を集め続けたダーリ。
アルファベットによらず、言葉の意味に重点を置いた独自の配列の辞書にたどりついたダーリ。
この配列の話がまたとても興味深く、こんな辞典ならいつ読んでも、どこから読んでも、きっと面白いに違いないと思わせる。

そしてまた、その偉業は、ダーリの名が、トルストイをはじめ、その後に続いた世代にとって辞書の代名詞ともなったことからも察せられる。

そんな彼の伝記が、読み物として面白いだけでなく、「言葉」についてあれこれ考えさせられもするのは、ある意味当然のことと言えるだろう。

ダーリの『詳解辞典』では、「変わり者」のことを「風変わりで独特で、世論や慣習に従わず、なにごとも自分流に行う人のこと。変わり者は人の言うことを意に介さず、自分が有益だと思ったことをする」と解釈する。

まさに「変わり者」。
すばらしい「変わり者」の物語だった。

『魔宴』

 

魔宴

魔宴

 

 人生の瑣末な出来事を記録することに何らかの価値があるなどと考えるのは、取るに足らない虚栄心の表れでしかない。それでも人はそれを書きとめて、内なる宇宙の法則を他者に伝えるのである エルネスト・ルナンの言葉からはじまるこの本は、“私小説”なのか“回想録”なのか。

著者曰くこれは声明ではない。手紙なのだ。回想録ではなく、覚え書きなのだ。残高証明書であり、道徳の覚え書きなのだ。いや、不道徳の、と言うべきだろうか。ともかく、むさ苦しい、自己満足のための記録なのだ。とのことだが、読めば読むほど、現実と小説の境目が曖昧になってくる。

目を覆いたくなるほど破廉恥で、あり得ないほど自虐的。
痛々しいほど寂しげで、どこか艶めかしい。
読んでいるとすごく切ない気分にさせられるのに、この語り手を信頼して良いものかどうかとまどうほどにスキャンダラスで…。
とにもかくにもものすごく、ヤバイ感じの本なのだ。


1906年、パリのユダヤ人家庭に生まれたモーリスは、小さい頃に両親が離婚し、母方の親族の元で育つ。
そのため父から譲り受けたドイツ風の名前ではなく、母方のサックスを名乗る方を好んだようだ。
子どもの頃に最も影響を受けた人物として紹介されているのは、母方の祖母の再婚相手、ジャック・ビゼーだ。
ジャックの父ジョルジュ・ビゼーはあの『カルメン』をつくった作曲家のビゼーだが、ジャックが3歳の時に亡くなっていて、弁護士と再婚した彼の母は華やかなサロンの女主人となったのだった。
当時の名だたる貴族や芸術たちが足繁く通ったストロース夫人のサロンは、マルセル・プルーストが『失われた時を求めて』の主要な登場人物を見いだした場所としても有名なのだとか。

モーリス・サックスの周りには、彼がまだそのことを十分意識するよりももっと前から、パリの芸術家や知識人や、有名になろうと野心を燃やすそれらの卵たちがうごめいていた。
けれども、彼がそこから学んだことはというと、酒や愛に溺れることや、金に汚く借金まみれになることや、とにもかくにも道に外れた生き方をするとか、いよいよとなったら口に銃身を突っ込んで引き金をひくと同時に人生の幕も引くといった生き様だった。

あるとき、ジッドの写真を壁に掛けようとしていたサックス青年は、友人にその古くさい好みを批判され、今や時代はコクトーだとばかり詩人本人に紹介され、詩人とその作品に魅せられて、その魅力に溺れていく…。
もしも写真を手にしていたあのときに……いやいやそれはないだろう。
ジッドからコクトーへ、たとえその瞬間がなかったとしても、早晩青年はコクトーに惹きつけられる運命だったに違いない。
もっともサックスときたら後年、誰あろうそのジッドにさえも、大いに世話になり迷惑をかけることにもなったのだったが。

仕事を始めてもなかなか上手くはいかず、ようやく収入を得ることが出来ても金が入ればついつい贅沢をし、結局はいつも借金漬け、このままではいけないと思ったとか思わなかったとか、とにかくカトリックに改宗し、なんと神学校に進学するが、そこもまた淫行が原因で放校になってしまう。

酒に飲まれ愛に溺れ、自意識に苛まれ、贅沢に明け暮れると同時に貧困にあえぐ、そんな自堕落な半生を描いた自伝的小説には、サックスが見聞きし、時にはその当事者ともなったスキャンダルを含めた、実在の芸術家たちとの交流が占める部分も多く興味深い。

めちゃくちゃな生活をおくりつつも、その読書量や知識は半端ではなく、作家やその作品への鋭い批評も読み応えがある。
とりわけ207ページあたりから展開されるプルースト論はなかなかのインパクト。

そもそもプルーストのヒロインは、明確な性をさえ持たない。彼女は愛そのものであって、読者はそれぞれに自分の慕わしく思う人の姿をそこに投影することができるのだ。

澁澤龍彦がその著書『異端の肖像』の中で『魔宴』とは、マルセル・プルースト晩年の「奇怪な倒錯的嗜好」を暴き、そこに「子供の残虐さ」を見出す告白の書なのであると評していたことが訳者解説で紹介されていたが、この宴で紹介されたプルーストに関するあれこれには、そういう面があったとしても、それだけでは決してないように私には思われた。

これから読む方のためにアドバイスするとしたら、読み進めるに当たっては、栞を二枚以上用意した方がよさそうだ。
一枚はもちろん、どこまで読んだか。
二枚目はなかなか親切な訳註用に。
もしもあなたが気に入ったフレーズや、気になる本をメモするタイプの読書家ならば、メモ用紙も必要だ。
様々な作家の様々な作品からの引用が読みたい本を増やすに違いない。