森の中の古い一軒家に暮らすソフィは、もうすぐ80歳になるという作家だ。
一緒に暮らす夫とはかれこれ60年近い付き合いで、欲張りでふざけんぼ(グリゴー グルドン)の彼のことを、彼女はグリッグと呼んでいる。
世界を憂いながら、自分と夫の老いを意識し、創作への不安を抱える作家の前に現れたのは、モップのような毛並みの一匹の犬。
森の生活はやがて二人と一匹のものとなり、ユリシーズにちなんでイエスと名付けられたその犬との暮らしが、ソフィにもう一度、自然と創作と自分自身に向き合うきっかけをもたらすことになるのだった。
もっとも、グリッグは当初、言ったものだ。
作家に必要なのは、主に忠実な犬より、皮肉で残酷でプライド高い猫の方がいい。君に『おまえが今まで読んだことがないような本当の人生を書けよ』って、君の自叙伝の執筆を助けてくれるだろうから、と。
こんな風に紹介したら、きっと歳を重ねた作家とその心を癒やす子犬の心温まる物語だと思われるかもしれないが、これは決してそういった類いの話ではない。書くという行為は、反抗から生まれるものであり、社会参加であり、抗議でもあると私は思う。これを座右の銘としてきた。
(p186)というソフィの生き様は、ある意味とてもとんがっていて、自他共に認める“型にはまったお堅いタイプ”の読者としては、時々眉をひそめたり気後れしたりするほどだ。
それでも、森を見つめ、行き交う人々を見つめ、自分自身を見つめ、自分とその周縁をどこまでもどこまでも深く掘り下げていくソフィにつきあっていくと、物語と現実の境目がどんどん曖昧になっていく気がしてくる。
自分はフィクションの中にいるのか。ノンフィクションの中にいるのか。起きたまま夢を見ているのか。それとも眠っていて夢を見ているのか。いやそれとも、現実なのか。この話を書き始めたとき、自分がどこにいるのかさえわからなくなり、わが身をつねってみることもあった。そもそも、もはや誰一人、自分がどこにいつのかなどわかっていないのだ。誰もが皆、まるで虚構のようだと思いながら生きている。現実感がないことばかり。すっかり非現実的な状況に毒されてしまっているのだ。(p72)
人類のひとりとして生きるとは、非常に限定的な方法で、世界の中にあることなのだ。可能性はもっと広くあるはずなのに。
(p146)
作者本人を思わせるソフィに病床の夫グリッグがいう。さあ、本のなかでどんな風に僕を死なせるつもりなんだい?話してくれよ。興味があるんだ。君にはどんなふうに見えているのか
(p303)
「こんどの本は、犬の話を書こう」と私は独り言を言う。
「犬?犬の本?」
「どうしてだめなの?キツネやオオカミやクマにこだわらなきゃいけないの?犬はペットだからだめだというの?家庭的だからだめ?ふつうだからだめ?ふつうすぎる?犬を飼っている家なんていくらでもあるから?だからこそ、いいんじゃない。タイトルは『食卓にきた犬』にしましょう」
「何言ってんの。『食卓にきた犬』がタイトルなんて、読んでくれるのは犬を飼っている女性だけ。そんなんでいいの?」
「ええ、望むところよ。それに、ほら、寛容そうで、時代の変わり目を感じさせるタイトルでしょう。つまり……(略)」(p290)
老作家と犬、妻と夫、人と自然、生と死、破壊と再生、対となるもの、並び立つもの、境界の曖昧なもの。
見て触れて考えて書いて、考えて、考えて、考えて、書いて、そうやって生きるひと。
たとえその生き方に共鳴しなくても、自分とその周縁について、思わずあれこれと考えずにはいられない。
訳者の名前を頼りに手にした本で、事前に内容を確認したわけではなかった。
とても静かで、それでいて熱を持っていて、人々の心理も自然の描写も厳しいけれど美しく、老いや人の悪意といった不安を駆り立てる恐ろしいものと、日々の営みややすらぎが同居する不思議な読み心地の本だった。



















