“20世紀イタリアの「最も美しい声」”とも評される作家、ナタリーア・ギンズブルグの“決定版選集”と銘打たれた本書には、15篇の短篇小説と22篇の自伝的エッセイが収録されている。
そのうちの何篇かは、同じ訳者の翻訳で未知谷から出版されている本で読んだことがあり、エッセイの中には河出書房新社から出ている本で別の訳者によるものを読んだことがあったが、それらの作品についても初読の時とは少し違った印象で読み進めることが出来た。
第1部をフィクション、第2部をノンフィクションで構成し、それそれを執筆年の時系列で収録した上で、30ページを越える詳細な編者解説に20ページ越えの訳者解説を附した読み応えのある1冊。
タイトルの『不在』は1933年、作家が17歳の時に発表した1篇から採られているのだが、いやこれ、本当に17歳か!?と思わずうなってしまうような作品だったりもする。
その他の短編にも、恋人、夫婦、家族、友人、信じることに裏切りなど、どこにでもありそうな出来事が、とりたてて目新しい展開などなしに、一歩退いたような冷静な語り口で語られているのだが、その突き放したような描写だからこそ描き得る繊細な“横顔”が印象に残る。
そこにいない人のことを描くことは、いない人のことを考えつづける人や、いない人のことを考えまいとする人のことを描くことでもあって、そうしたあれこれが、第二部のエッセイと合わせ読むことによって、ますます鮮明になっていく。
「バッラマッリオ街」と題されたエッセイの中の一節に目を留める。
公衆浴場の建物だったところに戦後、塗料工場ができた。いまは何があるのかわからない。町は、人びとが住んださまざまな時代に造られたいくつもの層が積み重なってできている。プルーストの言った有名なフレース、「家も、道路も、大通りも、逃げてゆく、ああ!歳月のように」。私たちの記憶はいまはある層にそしてまたまた別の層に止まる。そこに小鳥のように止まるのだ。それでもまた自分たちが育った町に、少女期や子ども時代に見た場所に、私たちの記憶はより頻繁により長く止まる。その最初のまなざしの好奇心や苛立ち、反感や恐怖や期待が元のままなのをふたたび見出すのだ。(p284)
ナタリーア・ギンズブルグにとって短篇は数ある層の一部を切り出したものだったのかもしれない。

























