かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『きつね』

 

『きつね(Lisica)』はユーゴスラビア出身のクロアチア語作家ドゥブラヴカ・ウグレシッチ(1949−2023)が2017年に発表した長編小説だ。
長編小説ではあるが構成は6部立てで、各部は作者を思わせる語り手によってゆるやかに繋がっている。
一つ一つは独立した短篇のようでもあり、連作短篇のように読むこともできる。

日本、イタリア(ナポリ)、クロアチア、イギリス、アメリカ、イタリア(ローマ・ミラノ・トリノ)と部毎に舞台を変え、物語とは何か、作家とは、読者とは、ヒロインとは、ナショナリズムとは、亡命とは、移民とは……と、様々な問いを投げかけ、虚実織り交ぜながら物語る。


とりわけ圧巻は第1部「物語がどのように生まれるかの物語」だ。
この「物語が…」というタイトルは来日したソ連の作家ポリス・ピリニャークが日本について語りながら物語とはなにかを論じた短篇から借用されているのだそう。

来日した主人公(=語り手)が、ピリニャークの作品をなぞりながら、そこから更に深く掘り下げて、物語についてあれこれと思い巡らすというエッセイ風の作品だ。

ピリニャークが1926年に書いたその作品の主人公はロシア人女性ソフィアで、彼女はタカギという作家の妻だった。
タカギは情欲や下痢で身を震わせる姿が臨床的な正確さをもって書かれている…というほどに、自身の小説を丸々妻のことに費やしていた。
ソフィアがその事実を知ったときに感じたのは羞恥ではなく、自分の人生が余すことなく観察の対象になっていることに対する恐怖だったと…ピリニャークは物語る。

『きつね』の主人公は指摘する。
ソフィアは2重に裏切られたのだと。
1つ目は夫であったタカギという作家に。
2つ目は、物語がどのように生まれるかを表現するために、ソフィアの結婚生活とその破綻を描いたピリニャークに。

「彼女」は神秘的な「彼」に魅了され、「彼」は彼女を誘惑し、征服し、辱め、裏切る。「彼女」は最後に尊敬と自尊心に値するヒロインとして回復する。
ごく普通の少女がヒロインになるには、世界文学の古典体系に則って、屈辱の試練に耐えなければならなかったと主人公は指摘する。

宮本百合子の作品にもその名が出てくるロシア人作家ピリニャークが、実際に「日本通」であったことは確かだ。
タカギという作家のモデルは谷崎だろうか?
結局のところこの作品は、虚実入り交じったフィクションなのか?…と思いながら、手探りで読み進めると、「谷崎潤一郎」「田山花袋」「宮本百合子」「沼野恭子」の名前まで出てきて驚かされる。

これは面白い。面白いがとても手強い。
何が真実で何が創作なのか見分けるのは難しい。
とりわけ舞台が、ヨーロッパに移ったならば……と、心配しながら、第2部「均衡の芸術」へと進んで、そんな心配は無用だったと気づく。

とある国際会議に招聘されてナポリを訪れた主人公は、作家の死後、未亡人として活躍する女性と知り合う。
同じ企画に招かれていた80歳を越えるその女性は、とても有名で、現役作家よりもはるかに人気が高かった。
自らを「文学セレブ」と呼ぶその未亡人は、後日、主人公に謝りながら言うのだ。

 男の人はわたしを敬う。なぜだと思う?わたしが「分」をわきまえているから。わたしはひとりの男性の文才に従順に尽くし、奉仕してきた。男性の知性に尽くしてきた。だから、わたしは男性にとってのドリーム・ガール、そして彼らの潜在的な、未亡人というわけ。


続いてこうも指摘する。
芸術家の伝記をちょっと探してみれば、まちがいなく、似たようなケースが山ほど見つかる。
ファンはみんな事実とは無関係なイメージを喜んで信じる。
“人生を文学に捧げ、文学のために未亡人暮らしをつづけている”と。
2人が出会ったとき、作家は夫人より40歳も年上だったことなどには目を向けない。
移民の女の子を自分の看護人とタイピストにした変態の老人だという結論に至らないために。


文学界で女たちが担ってきた「役割」について、あれこれと鋭い指摘を披露しつつ、「分」をわきまえない自分自身についてもまた冷静に分析する主人公は、ユーゴスラビア紛争以降、自身に向けられてきた様々な攻撃を語りつつ、「亡命作家」「移民文学」についても赤裸々に語り、さらには「読まない読者」「他者に目を向けず自分を表現することばかりに熱心な書き手」についても切り込んでいく。

これはもう本当にすごかった!ものすごく良かった!
この作品の素晴らしさはもちろん、文学ネタやツッコミどころなどについても、あれやこれや書きたい、語りたい!と思いはするも、思ったことの10分の1も書けそうにない。

これはともかくあれこれ書くよりもひたすら読むべき本だなと、再びページをめくりはじめた。