かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『ペソアと歩くリスボン』

 

このタイトルを目にしたあなたはどんな中味を想像しただろう?
はじめてこのタイトルを目にしたとき
私はてっきりこの本はポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアの足跡をたどって
たとえばあの詩に詠われていたのはこの風景で
この詩に出てくるのはこの店、
この場所に腰掛けてペソアはよくひとりで本を読んでいた……
などと説明しながら、リスボンを紹介するガイドブックなのだろうと思いこんだ。

そう思いこんだまま手にしたわけではなかったが、
思っていた以上に生真面目なガイドに少々たじろぐ。

実はこの本、1925年にペソア自身が英文で書いたリスボンのガイドブックなのだ。
といっても、このガイドブック、書かれた当時に出版されたものではない。
ペソア生誕100周年に当たる1988年に、
ペソアの原稿がつまったペソア読者の間では有名な
あの「トランク」の中から「発見」されたものなのだという。
その経緯については、
ペソアがこうしたガイドを書き残していた動機を含めて
本書に同時収録されいる
リスボン大学のテレーザ・リタ・ロペス教授の
17ページにわたる解説に詳しく記されていて、
これがまたとても読み応えがあり興味深い。

書かれた年代を反映してガイドブックはまず港から始まる。
そう1920年代当時、旅人は皆、船に乗って海からやってきたのだ。

目の前に現れるのはベレンの塔

波止場を後にして7月24日通りを進み、
やがてリスボン最大のコメルシオ広場にたどり着く。
そしてそれからさらに………

途中目につく建物だけでなくその歴史や内装といったものまで
丁寧に語り挙げていく。

正直に言えば、かなりマニアックな本ではある。
だがハマる人はハマるであろう本でもある。

私はといえば、読みながらすでに
この本を片手にリスボンの街を歩くことを夢見ていた。
贅沢をいうならば、
本は予習復習に使うとして
この本の朗読をイヤホンガイドにして
カメラ片手にリスボンの街をくまなく歩いてみたい。
そんな夢を抱かせる1冊だった。

           (2019年09月23日 本が好き!投稿)

『アナーキストの銀行家』

 

アントニオ・タブッキは、私が愛してやまない作家の一人だ。
彼はイタリア人であったが、ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアを敬愛していて、イタリアにペソアの作品を積極的に紹介した。
それだけでは飽きたらず、自身の作品の中にも頻繁にこの詩人を登場させた他、ペソアと同じポルトガル語で執筆をするようになり、やがてポルトガルの大学で教鞭を執り、ポルトガルの病院でその一生を閉じた。

タブッキがそれほど惚れ込んだペソアの作品を私もぜひ味わいたいと、これまでいくつかの本を手にしてきた。
中には生涯大切にしようと思っている本もあるが、今ひとつ理解が及ばず評価保留という本もある。
それでもやはり、ペソアと聞けば素通りはできないというほどには、惹かれているのだ。

そんなわけで『アナーキストの銀行家』。
表題作 Il banchiere anarchico は映像化され、2018年、ヴェネチア国際映画祭の SCONFINI 部門で公開されたことでも注目を浴びた作品でもある。
7編を収録した本書は、底本とした短編集から、訳者がより作品としての完成度が高く、軽妙洒脱な小説家としてのペソアの一面があらわれている作品を選んで編んだものだとのこと。

そう聞いて(ペソアに完成度を求めてもなあ)(取捨選択せずに底本収録の10編全部訳してくれればよかったのになあ)とぶつぶつ文句をいいつつも読みはじめる。

巻頭作「独創的な晩餐」は、異名アレクサンダー・サーチの名のもとに英語で執筆された作品。
サーチ氏はリスボン在住のイギリス人作家という設定なのだそうで、なるほど作品にも英国怪奇小説的な雰囲気が漂う。

収録作品の中で最もペソアらしい(?)気がするのは「忘却の街道」
ポルトガル語の慣用句を使った小話「たいしたポルトガル人」
「夫たち」に描かれているジェンダー観はまあ確かに今日的といえなくはないが、これがペソアその人の考え方であるという風にはすんなり受け取れないのは、私のあまのじゃく体質ゆえか。
思いの丈を綴った出されることのない「手紙」
思わずぞくっとさせられる「狩」
そして、らしくないようでやっぱりらしい気もする「アナーキストの銀行家」

いろいろな顔が見え、いろいろな味が味わえるという点では、いかにもペソアらしい作品集といえるのかもしれない。

正直なところ、これはすごい!とか、これが忘れがたい!!といった特別な作品はないが、どれも悪くはなくそれなりに面白かった。
ただ一つ気がかりなのは、比較的読みやすい作品が集められているだけに、この本ではじめてペソアに出会った読者が、良くも悪くも「なるほどペソアとはこういうものか……」と思ってしまうのではないかということだ。

ペソアの実力はこんなもんじゃないから!(← 失礼!)
ペソアに求めるのは完成度じゃないから!(← ますます失礼!!)
と、ついつい余計な口出しをしたくなるという点で、なかなか面白かったし、この先もずっと手元においておこうと思ったにもかかわらず、私のこの本の評価は少々辛めになってしまうのだった。
                (2019年09月20日 本が好き!投稿

『ポルトガルの海―フェルナンド・ペソア詩選』

 

私が初めてペソアに出会ったのは1990年代前半で、
タイトルに惹かれて
1985年に出版されたこの本の前身を手にした時だった。

ペソアのことなど全く知らずに読み始めた詩集に
フェルナンド・ペソア以外に
アルベルト・カエイロ、リカルド・レイス、
アルヴァロ・デ・カンポスといった詩人の名前が登場し
巻末の解説でそれらすべてが
ペソアの異名であるという事実を知らされて
なんだかキツネにつままれたような気がしたものだった。

あれから、年を重ね、あれこれと気の向くままに本を読むうちに、
タブッキに出会い、タブッキを通じて、再びペソアに出会い、
いつの間にかペソアは私にとって、大事な詩人になっていた。

だから、今回、彩流社祭をきっかけに
増補版という形で収録量を大幅に増やしたこの詩集に再会したのは、
ある意味、当然の結果だったのかもしれない。

詩人とは虚構(よそお)う人だ
その虚構いのあまりに完璧であるため
現実に感じる苦痛まで
苦痛であるかのごとく虚構う
(フェルナンド・ペソア「自己分析」より)


本書に収められているこの詩の一節と
澤田直氏訳の『新編 不穏の書、断章』に納められた

詩人はふりをするものだ
そのふりは完璧すぎて
ほんとうに感じている
苦痛のふりまでしてしまう

という一節とは
同じ出典であると思うが比べてみると随分と印象が違う。

本書の池上氏の訳は総じて硬質な印象をうけ、
意味が取りにくいところもあるが
性格も出自も背景も異なる4人の詩人の詩を
訳し分けようという試みはとても興味深い。

そう、4人は全く違う詩人なのだ。
そこがこの詩集のキモでもあると思うのだが、
難しいと思うのはやはり予備知識なしに詩だけを味わっても
この点がなかなか押さえられない点だ。

もしもあなたが、ペソアと初めて出会ったのならば、
冒頭からざっくり目を通したあと、
三分の二ほどページをめくったところにある
訳者解説をじっくり読んで、
ペソアついて、またそれぞれの詩人について
ある程度の人物像をつかんでから、
再び詩にもどるのがお薦めだ。

もっともペソア自身は、
読者に「捕まえてほしい」などとは思っていないともおもうので
つかみ所の無いまま、
一緒に漂うのもまた一興だという気もするけれど。

             (2019年03月30日 本が好き!投稿

『不安の書』

 

ポルトガルを代表する詩人フェルナンド・ペソアは、リスボンの貿易会社ではたらきながら、詩を書き留めて、英語とポルトガル語で数冊の詩集を出しはしたが、生前は、文壇にごく少数の理解者を得ていた他はほとんど無名に近かった。


47歳でその生涯を終えた後、彼の良き理解者であった友人たちがその膨大な遺稿を整理して世に送り出したことで、広く認められるようになり、20世紀前半の代表的な詩人のひとりと目され、1988年に発行されたポルトガル紙幣100エスクードには、詩人の肖像が印刷されるにいたったのだという。


この『不安の書』もやはり、詩人の死後、彼の友人たちの手によって、整理編纂されて世に送り出され、今では世界中に熱烈な愛読者をもつことになった。
決定稿が残されているわけではないので、散文の並べ方、判読不能の箇所の扱いなど、編集者によって少しずつ異なる本があるようだ。


リスボンのとあるレストランで、ペソアは簿記係補佐のベルナルド・ソアレスなる人物と知り合い、ソアレスの著作の出版に助力することになったのだとする「紹介者フェルナンド・ペソアの序」から始まるこの本は、ベルナルド・ソアレスという人物が抱く、自己の存在への不安、生の倦怠、夢と現実の交錯といったものを600ページ以上にわたって断片的に語り続ける。


とはいえ、それらは一つの物語を形成しているというわけではなく、460の散文の集合体であるので、どこから読んでもよく、冒頭から一気に読み進めるというよりは、折々に思いついて開くといった読み方の方がふさわしい気もする1冊だ。


この本はポルトガル語からの直訳にして、「完訳」という画期的な1冊で、ボリュームももちろんお値段もかなりのもの。
先に紹介した抜粋 『不穏の書、断章』と比べると、日本語としては少し読みづらい感はあるが、それでも一文、一文を味わう価値はある1冊だといえるだろう。

              (2013年04月12日 本が好き!投稿

『反省の文学源氏物語』

 

人によっては、光源氏を非常に不道徳な人間だと言うけれども、それは間違いであると言い切るのは、読書会のサブテキストにとあれこれ読み散らかしているところに出会った折口信夫の『源氏物語』評。

最初から完全な人間などいない。
人間は、過ちを犯した事に対して厳しく反省して、次第に立派な人格を築いていくものだ。
源氏物語を誨淫(かいいん)の書と考え、その作者紫式部の死後百年程経て、式部はああ言ういけないそらごとを書いた為に地獄へ堕ちて苦しんでいるなどという学者すらいるが、そういう人は、小説と言うものが人生の上にどんな意義を持っているかわかっていないのだと折口はいう。
源氏物語は、我々が、更に良い生活をするための、反省の目標として書かれていたというのである。

その証拠に光源氏にはいろんな失策があるけれども、常に神に近づこうとする心は失っていない。
光源氏の一生には、深刻な失敗も幾度かあったが、失敗が深刻であればある程、自分を深く反省して、優れた人になって行った。どんな大きな失敗にも、うち負かされて憂鬱な生活に沈んで行く様な事はない。此点は立派な人であると力説している。

立派って……まあ確かに光源氏、打たれ強くはあるけれど……。

その一方で折口はまた、物語の中の具体的な例をあげて、因果応報と言う後世から平凡なと思われる仏教哲理を、具体的に実感的に織り込んで、それで起って来るいろんな事件が、源氏の心に反省を強いるのである。源氏がいけない事をする。それに対して十分後悔はしているが、それを償う事は出来ないで、心の底に暗いわだかまりとなって残っている。とも指摘する。

同時に源氏物語の背景にしずんでいる昔の日本人の生活、更に其生活のも一つ奥に生きている信仰と道徳について、後世の我々はよく考えて見ることが、源氏を読む意味であり、広く小説を読む理由になるのである。というのだ。

確かに『源氏物語』を読んでいると信仰については、あれこれと思うところはあるけれど、道徳についてはどうなんだろう…。
反面教師か?そうなのか??

でも確かにそういう側面があるからこそ、物語は大団円で終わらなかったのかもしれない。

源氏物語は、男女の恋愛ばかりを扱っているように思われているだろうけれど、我々は此物語から、人間が大きな苦しみに耐え通してゆく姿と、人間として向上してゆく過程を学ばなければならぬ。源氏物語は日本の中世に於ける、日本人の最深い反省を書いた、反省の書だと言うことが出来るのである。と締めくくる折口のこの源氏評に、今のところ「共感」ボタンは押せないが、「読んで楽しい」は力一杯押しておきたい。

『新編 不穏の書、断章』

 

アントニオ・タブッキは、私が愛してやまない作家の一人だ。
彼はイタリア人であったが、ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアを敬愛していて、イタリアにペソアの作品を積極的に紹介した。
それだけでは飽きたらず、自身の作品の中にも頻繁にこの詩人を登場させた他、ペソアと同じポルトガル語で執筆をするようになり、やがてポルトガルの大学で教鞭を執り、ポルトガルの病院でその一生を閉じた。


タブッキがそれほど惚れ込んだペソアの作品を私もぜひ味わいたいと、かねてから思っていたのだが、詩の翻訳というのはなかなか難しいものらしく、以前読んだいくつかの作品は残念ながら今ひとつピンと来なかった。


今年1月に刊行された本書は、以前同名で別の出版社から出版されていたものを大きく増補、改訂して新編集をしたものだという。
訳者の澤田氏は、フランス語が専門なのではあるが、ペソアが読みたいがために、ポルトガル語を独学で学んだのだそうだ。
あとがきにとると、翻訳にあたっては、各国語の訳本も参照しているとのことだったが、どうやらここにもペソアに魅入られた人がいるらしい。


それほどまでに人々を魅了する詩人。
これはやっぱり、一度読んでおかねばと決意してページを開く。


冒頭には、ボルヘスサラマーゴカルヴィーノといった著名な作家のペソアへのオマージュが掲載されていて、数行ずつのその文章を読むだけでもう、この本を手にする価値があったと確信した。


その後に収められているのは141章の「断章」と、126章からなる「不穏の書」だ。
といっても、どちらも1つの物語を構成しているというわけではなく、日々の暮らしの中で書き手が見聞きし、考え、空想し、夢見た数々の“断片”がちりばめられているだけだ。
また完訳ではなく、「不穏の書」については全体の5分の1程度の量に相当するものだという。

詩人はふりをするものだ
そのふりは完璧すぎて
ほんとうに感じている
苦痛のふりまでしてしまう



こうした断片をひとつずつ、拾い集めていくうちに、読み手は詩人と共に、人生というあてのない旅にでて、自分の心と向き合うことを余儀なくされる。
一度目を通せば済むという本ではない。
時折思い出して、思いつくままに本を開き、目に飛び込んできた言葉を読み、詩人と共に旅に出る。
そんな贅沢な時間を幸せと感じることができる人のための本なのかもしれない。

 

             (2013年03月30日 本が好き!投稿

『平安人の心で「源氏物語」を読む』

 

源氏物語』を読んでいると時々とっても気になることに出くわす。

たとえば、源氏の君。
あちこち人妻に手を出して、あげく父の愛妻と子までなしてしまうのだけれど、当時はこれ、罪にならなかったのか?

会ったことのない相手に恋文をおくるのは常識!?
一夜を共にした後も、まだ顔を知らないって、どんだけ暗闇!?

物の怪って本当に信じられていたの?

あの人この人、あのエピソード、このエピソードにモデルはあったの?

叔父と姪、叔母と甥の婚姻はOK?
結婚できるのは何親等から?

妻と妾、女主人と女房の違いは?


そういう気になるあれこれを、「平安人の常識」に照らしてわかりやすくかみ砕き、あれこれ解説してくれるなんとも親切で興味深い一冊。


たとえば「若紫」で源氏の君が幼い日の紫の上に贈った歌。
「あさか山浅くも人を思はぬになど山の井のかけ離るらむ」
この歌がこれなら幼い彼女にもわかるだろうと、当時の手習い歌としてもっともポピュラーなもののひとつ「あさか山影さへ見ゆる山の井の浅くは人を思ふものかは」をもじったものであったというのは、以前どこかの解説で読んで知っていた。
だが尼君の返歌「汲み初めてくやしと聞きし山の井の浅きながらや影を見すべき」が、源氏の君が依ったのと同じ『古今和歌六帖』の「あさか山」の近くに収められている「くやしくぞ汲みそめてける浅ければ袖のみ濡るる山の井の水」をもじったものだというのは、この本で初めて知って、改めてさすが尼君と思わずうなる。
これなどもおそらく当時の読者の「常識」に裏打ちされているのであろう。


あるいは、光源氏と朧月夜の君の一夜限りの契り夜。
「花宴」の舞台は二月二十日。
下弦の月が、午後十時頃、東の空に昇る。南中時刻は午前四時。
その間、建物の東側には直接月の光が当たるはず。
しかし、渦中の二人が出会ったのは弘徽殿の細殿、建物の西側で、ここならば月光も明け方まで差し込まない……作者はそこまできちんと計算して、闇夜の逢瀬を描いているのだという。

ページをめくりながら、いやはやすごいなと感心してばかり。

もっとも現代小説だって、元ネタを知らないで読み流してしまうことなど、山ほどあるのだから、そんな平安の常識など知らずに読んでも楽しめはするのだけれど、知ったら知ったでなお面白くて、ついついあれこれと副読本を読みあさってしまうのだった。