かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『ハムネット』

 

シェイクスピアは18歳のときに8歳年上の女性と結婚し、半年後に長女が誕生した。その翌々年には男女の双子が生まれ、ハムネットとジュディスと名付けられた。ハムネットは11歳のときに死んだ。”という記録は残っている。

だが、妻がどんな女性だったか、二人はどうやって知り合ったのか、その結婚生活はどんなものだったのか、夫は何故家族を伴わず単身ロンドンに出たのか、どうやって劇作家になったのか、彼らの一人息子はなぜ死ななければならなかったのか、などということはわかっていないのだという。

わかっていないにもかかわらず、ここにもまた天下の悪妻として名を馳せた女性がいる。

もしかすると、古今東西文豪の妻は「悪妻」であるべきとの社会通念でもあるのだろうか。

作家はそんな“通説”に抗って、「分かっていないこと」に焦点を当てて物語を紡いた。

というわけで、約400ページにわたって、彼と父親との微妙な関係、妻アグネスとのなれそめや一家の暮らしぶり、黒死病がもたらす悲劇など、家族にまつわるあれこれが語られる。

なによりも素晴らしいのはその描写力。

日の射し方、森の空気、家具の配置など、細かな背景描写がページの間に舞台装置を浮き上がらせ、戸口に立った人物の足元からのびているであろう影さえも、目に浮んできそうなほどだ。

そうした背景の中に、独立心と生活力にあふれた女性が現れ、その女性アグネスを軸に、彼女の家族と一家を取り巻く人々が営む、当時のイングランド中部における暮らしぶりが鮮やかに蘇る。

同時に「手袋製造業者ジョンの息子」「ラテン語の家庭教師」「イライザの兄」「アグネスの夫」「ハムネットやスザンナ、ジュディスの父」などと一度も名前を記されることのない「彼」の姿が、シルエットのように浮かび上がる。

この素晴らしさを、どうにかして誰かに伝えたいと思うが、どういう切り口で書いてもこの作品の魅力を上手く伝えることが出来そうにない。

大胆ながら繊細で、陰翳すらも鮮明で、この作家とこの翻訳家でしかありえないと思われるほど、見事に紡がれた物語だった。