かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『ホワイト・フラジリティ 私たちはなぜレイシズムに向き合えないのか?』

 

 たとえば「それ偏見だよ」「ずいぶん差別的だね」と、誰かに指摘されたとしよう。
おそらく私は躍起になって「そんなことはない」「それは誤解だ」と弁明するだろう。
場合によっては、「人権問題には若い頃から積極的に関わろうとしてきた」「私には○○の友だちだっている!」などと口走るかもしれない。
でも、違うのだ。
私の中には確かに、なんらかの偏見があり、意識的ではないにしろ差別的な発言をしてしまうことだって十分あり得る。

そう自覚して、自分の中のあれこれを常にアップデートしていく必要があるのだと、読みながら、何度も何度も自分に言い聞かせずにはいられなかったこの本は、批判的言説分析と白人性研究の分野で活躍する研究者であると同時に、教育者であり作家でもあるロビン・ディアンジェロ氏が2018年6月に刊行した著作「White Fragility: Why It’s So Hard for White People to Talk About Racism」の全訳だ。

タイトルにある「White Fragility(白人の心の脆さ)」とは、白人たちが人種問題に向き合えないその脆さを表現する言葉として、2011年に著者自身が作り出した造語なのだそうだ。

“白人女性”である著者が、白人の読者を主たる対象に、白人はなぜ人種問題に向き合えないのかと問い、白人による黒人差別の構造を解明しようというこの本を、私が読もうと思った理由に、その構造を知れば、他の差別問題にも応用できるのではないかという気持ちがなかったとはいえないが、まさかこれほどまでに、自分の中にある差別意識について、突き詰めて考えさせられることになろうとは思いもよらなかった。

レイシズムという制度は、社会全体で強化された大がかりなイデオロギーから始まる。私たちは生まれたときから、その思想を受け入れ、疑わないように条件づけされている。イデオロギーは社会のあらゆる面、たとえば、学校や教科書、政治演説、映画、広告、祭日、言葉やフレーズを通じて強化される。さらに、そのイデオロギーを疑問視した人に与えられる社会的制裁や、それに代わる思想がほとんど用意されていないことによっても、強められるのだ。(p41)



著者は様々な企業や団体などで行われるダイバーシティ研修でも出張講義を実践する多文化主義教育の専門家なので、説明の段階で既に攻撃されたと思いこんで反撃を始める受講者や、偏見を指摘された時の相手の反応など、その様子がありありと目に浮かぶような具体例に事欠かない。
まるでドラマのワンシーンのようなそれらの場面も、読み解く力がなければ、ただのハプニングにしかみえない。
ページをめくるうちに、自分の観察眼が少しずつ鍛えられて、問題点が可視化されてきたように思える。

同時にそうしたハプニングシーンのいくつかには、妙な既視感があり、差別の構造としてあげられた多くのものが、白人を男性に、非白人を女性に置き換えが可能であるようにも思われもした。
もっとも、ことはそう単純ではない。

性差別の問題にしろ、他の差別問題にしろ、構造に類似点が多いとしても異なる点もまたあるはずで、本書で学んだことを参考にしつつも、それぞれまた、別のアップデートが必要な問題なのだろう。

『世界と僕のあいだに』

 

 品のある装丁で詩的なタイトルの比較的薄い本だ。
若い父親が14歳の息子に語りかけるという体裁をとりながら
現代のアメリカ社会にあってアフリカン・アメリカンの男性が
どのような境遇に置かれているのか
その要因はどこにあるのか
そうした社会とどう向き合っていけばいいのか
具体的な事件をあげ
熱心ではあるが過度に感情的になることなく
一つ一つ丁寧に説いていく。

だがその内容はと言えば、これはもう
すさまじいとしか言い様がなく
突きつけられる“現実”に
言葉を失い涙を流さずにはいられない。

息子の歳よりもう少し小さかった10代前半の彼にとって
最大の関心事は
「自分の肉体を生きたまま一日の終わりまで無事に運んでいくこと」だったという。
それほど、黒人男性が生きていくには恐ろしい社会だったのだ。
その肉体を「略奪」しようと構えているのは
界隈に蔓延るギャングであったり、警察であったりし、
家も学校も安全とはほど遠かった。

新米パパになる直前には
警察に路肩に車を停止させられ
心底震え上がったことがある。
駆け出しのジャーナリストだった彼は知っていたのだ。
警察がエルマーを殺しておいて、
その後でエルマーが監房の壁に自分で頭をがんがん打ちつけて死んだと主張したことや
ゲイリーを撃っておいて、警官の銃を奪おうとしたからだと言ったことや
整備工の首を絞めたり
容疑者をショッピングモールのガラス扉越しに投げ込んだりしたことを。
そうしたあれこれを警官たちは実に規則正しく平然とやってのけることを。
だから恐ろしくないはずはなかった。

これからおまえが直面するであろう社会は…
これからお前が抱えるであろう悩みや疑問は…
これからお前が立ち向かわなければならないあれこれは…

生き抜くすべを伝えるべく父が息子に語る。

彼の言う「ストリート」が
彼の言う「メッカ」が
どんなところで、どんな人たちが集まってくるのか、
彼のいう「アメリカ」がどんな社会か
あなたにその目で確かめてみて欲しい。

内容はもちろん、文体も決して読みやすい本ではない。
とても一気に読める内容ではないし、値段も手頃とは言いがたい。
それでも、この本は買いだ。
じっくり時間をかけて読む価値がある。

そしてまた多くの人に読まれるべき本であるとも思う。

最後にこうしたいささか感傷的すぎる
私の言葉だけでは足りないと思われるであろう方のために
巻末に収録されている都甲幸治さんの解説から
2つの事実を紹介しておこう。

1つ目はタナハシ・コーツはこの本で
2015年の全米図書賞ジャーナリズム部門を受賞しているということ。

2つ目はタナハシ・コーツが
過去にトマス・ピンチョンリディア・デイヴィス
ジュノ・ディアスなど現代アメリカ文化を代表する面々が受賞し、
5年間で50万ドルもの助成金を受け取ることができるというマッカーサー賞を
受賞したということ。

どうです?
これは押さえておくべき作品だと思いませんか?
お薦めです。

                (2017年10月23日 本が好き!投稿)

『うたうおばけ』

 

 はじめて“うたうおばけ”と出会ったのは、
書肆侃侃房の「web侃づめ」(外部リンク)の連載を通じてだった。

本当ならここは、
“はじめてくどうれいんさんの著作に触れたのは”
とでも書くべきなのだろうが、
その連載に添えられた“うたうおばけ”の写真が
妙に印象的で著者の名前よりもおばけの名前で
脳内インプットされてしまった感がある。

その「web侃づめ」での人気連載に大幅増補した全39編のエッセイ集と聞いては
手を伸ばさないわけにはいかなかった。

ウェブ連載は書籍化されると無料公開が終了するということがよくあることが、
書肆侃侃房が太っ腹なのか、よほど自信があるのか
「web侃づめ」の連載は今も試し読み分として公開されているので
ぜひぜひちょっと覗いてみて欲しい。
『うたうおばけ』試し読み(外部リンク)


人生はドラマではないが、シーンは急に来るを合い言葉に、
「ともだち」についてのエピソードや、恋愛のことや地元盛岡のことなどが
描かれているエッセイを読んでいるとときどき、
あまりの面白さに
(いやこれ本当に実話?短編小説じゃないの?)などと
思ってしまうこともある。

実際、著者自身も連載時からよくそう聞かれるていたようで
そうした質問には
“自分の身の回りで特別おかしく楽しいことが起きているのではなく、
『はっ』として気にとめる目さえ持っていれば、
誰にでも起きるようなことを書いているつもり”と、応えているという。

いやしかし、こんなユニークな「ともだち」に囲まれていたら、
私なら身が持たないなと思ったり、
歌人はやっぱり、目の付けどころ、ことばの選び方が違うんだなと、
しきりに感心したりしながら読み進める。

その“感性”はもちろん、
なにより“若さ”がまぶしいが、
まぶしくて目をそらしたくなるというよりは、
若返りエッセンスをお裾分けしてくれるようなエッセイ集なのだ。

そういえば、学生時代、
付き合っていた彼は、岩手出身だったな…なんて、
どうでもいいことを思い出して、
なぜだかひとり赤面した。

『子供時代 (ルリユール叢書)』

 

 

---それじゃ、あなたはほんとうに、そんなことをするつもりなの?「子供時代の思い出を語る」……。この言葉は気詰まりな思いにさせるから、あなたは好きじゃない。でも、これしか適切な言葉はない、というわけね。あなたは「子供時代の思い出」を語りたい……ぐずぐずしてはいられない、そうなんでしょ。


唐突に、こんな書き出して始まるのは、ロシア出身でフランスに移住したユダヤ人で、ヌーヴォー・ロマンの代表的作家の一人、ナタリー・フロートが自らの子供時代を元に描いた自伝的要素の強い小説だ。

でも本当に?
そうと知っていそいそと手にしたはずなのに、読者はまだ懐疑的だ。
ナタリー・フロートといえば“トロピスム”。
人が意識する前のまだ形をなさない感情や感覚、言葉になる前の言葉の動き、外からの刺激に反応した心の状態、そうしたものをとらえて描き出すことをめざした作家ではなかったか。
その作家が“子供時代の思い出”などという、ある意味、しっかりと固まって動かしようがないように思われるものを題材にするなんて……と。

けれども、いざ読み始めてみればすぐに、いらぬ懸念だったことに気づく。

“自伝的小説”であるはずのこの作品、作家自身を思わせる人物と、同じ記憶を共有しているらしいもう一人と、語り手が二人いる。
そして二人は常に対話しているのだ。


「ほんとうに、そう思う?」

「それは違うわ、私はそんなこと考えなかった……」

「とんでもない。私の言っていること、図星でしょ。あなたはよく分かっているはずよ。」


一方は記憶をたぐり寄せて「子供時代の思い出」を語ろうとし、もう一方は、その「思い出」の裏に潜む語り手の意識を引き出すかのように、出来事のひとつひとつに再検討をうながす。

ああもちろんそうだ。
子供は鋭い観察者。
なんだって知っている。
両親をはじめ大人達からかけられた言葉はもちろん、誰も口にしなかった言葉さえも敏感に感じ取る。
そのくせ、時には自分自身に対してまでも、そんなことには全く気づいていないというふりをするのだ。

両親の離婚、父と母、それぞれのパートナーとの複雑な関係。
思いっきり寂しくて、それでも時には幸せで。

一人で思い出に浸るのには大きな危険がともなうが、そうだ、あなたと私、二人でならば。


幼いあの日に、クラスメートたちを模した紙人形で、一人模擬授業をしながら、難しい課題に挑んだように、彼女はもうひとりの彼女とともに、子供時代の探索に乗り出す。

2021年7月の読書

7月の読書メーター
読んだ本の数:19
読んだページ数:6260
ナイス数:509

てんげんつうてんげんつう感想
新潮100冊読書会のために再読。
読了日:07月31日 著者:畠中 恵
もういちど【しゃばけシリーズ第20弾】もういちど【しゃばけシリーズ第20弾】感想
「もういちど」ってそういう意味か!あやかしものはいろいろあるけれど,やっぱりこのシリーズ好きだなあ。
読了日:07月30日 著者:畠中 恵
あっけらかん よろず相談屋繁盛記 (集英社文庫)あっけらかん よろず相談屋繁盛記 (集英社文庫)感想
よろず相談屋繁盛記第5弾。大団円かとおもいきや、新シリーズの前のドタバタでおわったような…。
読了日:07月29日 著者:野口 卓
やってみなきゃ よろず相談屋繁盛記 (集英社文庫)やってみなきゃ よろず相談屋繁盛記 (集英社文庫)感想
頭はいいし人当たりもよく、実は武芸にも秀でてもいる。そしてこれこそ秘中の秘だが、実は犬、猫烏、雀から蝶やトンボにいたるまで生き物たちの言葉がわかる不思議な青年信吾の活躍譚。よろず相談屋繁盛記第4弾!
読了日:07月29日 著者:野口 卓
波〔新訳版〕波〔新訳版〕感想
45年ぶりの新訳と聞いては、読み比べずにはいられない。というわけで、以前読んだみすず版の川本静子氏訳と並行して読んで見た。
読了日:07月27日 著者:ヴァージニア ウルフ
波 (ヴァージニア・ウルフコレクション)波 (ヴァージニア・ウルフコレクション)感想
ヴァージニア・ウルフ7作目の長編で、ウルフの著作の中でも“最も実験的”と評されることの多いこの作品。45年ぶりに新訳が出たのを機に、読み比べもかねて再読してみた。
読了日:07月27日 著者:ヴァージニア ウルフ
嵐の守り手 2.試練のとき嵐の守り手 2.試練のとき感想
シリーズ第2幕。いずれ時が来れば、少年が持つものすごいはずの能力が目覚めるはずと、わかっていてもハラハラしてしまうのは、フィオンにとって導き手であり、理解者であり、庇護者でもあるおじいちゃんのろうそくもまた、燃え尽きようとしているからだ。そしてついに、その時が来たら…とおじいちゃんから託されていた<北のオーロラ>と名付けられたキャンドルに火がともされる……。おじいちゃんっ子としては、こういうの弱いんだよね…。(><)
読了日:07月26日 著者:キャサリン・ドイル
エルサレムエルサレム感想
様々な断片があちこちで結びつき、絡み合って構成されているこの作品のストーリーを上手く説明することは私にはできそうにない。可笑しくもなければときめく要素もないが、陰鬱というわけでもない。なにがどうとうまく説明はできないが、とにもかくにも吸引力がすごい。一読しただけでは細部にまで張り巡らされているであろう様々な意図をつかみ取ることはとてもできない。だが、間違いなく“すごい”ということだけはわかった。いずれまた再読しよう。
読了日:07月25日 著者:ゴンサロ・M・タヴァレス
奇跡―ミラクル― [詩集]奇跡―ミラクル― [詩集]感想
「書くとはじぶんに呼びかける声、じぶんを呼びとめる声を書き留めて、言葉にするということである」と詩人は言う。
読了日:07月23日 著者:長田弘
宝石商リチャード氏の謎鑑定 (集英社オレンジ文庫)宝石商リチャード氏の謎鑑定 (集英社オレンジ文庫)感想
#ナツイチ 読書会がなかったら、おそらく手に取らなかったであろう作品。こういう出会いがあるから、読書会っておもしろい。
読了日:07月20日 著者:辻村 七子
祖国 (下)祖国 (下)感想
物語は125の章に細かく区切られ、各章ごとに語り手が代わり、時系列に並んでもいない。2家族9人の語り手がそれぞれの視点から「祖国バスク」と自らの人生、そして自分と分かちがたい自らの家族と、もう一つの家族について断片的に語っていくのだが、そうした「かけら」を集め、積み上げていくことによって、様々な事柄が明らかになっていく。ぐいぐい読めるが、読み終えた今も、あれこれと考えずにはいられない。そんな作品でもあった。
読了日:07月19日 著者:フェルナンド・アラムブル
祖国 (上)祖国 (上)感想
舞台はスペイン北部バスク地方の独立機運の高い閉鎖的な土地柄の小さな村。バスク地方の分離独立を求める民族組織ETA(Euskadi Ta Askatasuna/エウスカディ・タ・アスカタスナ/バスク祖国と自由)が武装闘争の完全停止を宣言した2011年10月にはじまる物語は、現在と過去を行き来しながら語られていく。バスク文学と聞いて気になってはいたが、上下巻合わせて700ページ越えの長編だというので躊躇していた。読友さんのレビューに後押しされて読み始めたら止まらなくなって、一気読みだった。
読了日:07月19日 著者:フェルナンド・アラムブル
ロンドン謎解き結婚相談所 (創元推理文庫)ロンドン謎解き結婚相談所 (創元推理文庫)感想
テンポ良く、個性的な脇役もずらり、なにより、互いに打ち明けられずにいる秘密を抱え、心の傷を十分に癒やせないまま、それでもひたすら前を向いて、人生を切り拓こうとする主役の二人が魅力的。
読了日:07月16日 著者:アリスン・モントクレア
キリンが小説を読んだらキリンが小説を読んだら感想
書評サイト本が好き!を通じての頂き物。読売新聞の朝刊に2019年4月から1年半にわたり連載された「現代×文芸 名著60」に、読売新聞の読書面「本よみうり堂」のスタッフでもあるおじキリン氏のコラムや、作家や詩人、翻訳家や書評家など書評の執筆陣の対談や鼎談などをプラスして収録したこの本を手にした理由には、何を読んだらいいのかという指南を求める他に、あわよくば「読んだ気」に、という下心がなかったとはいわないが、個性的な執筆陣によって、書誌情報とは別の面白さが際立っていた。
読了日:07月14日 著者: 
ラングザマー: 世界文学でたどる旅 (境界の文学)ラングザマー: 世界文学でたどる旅 (境界の文学)感想
『ラングザマー』がドイツ語で「もっとゆっくり」を意味する言葉なのだと知って、私は思わず大きく息を吐く。こんな素晴らしい本を、どうしてもっと早く読まなかったのだろうと思いながらページをめくっていたことを少し恥ずかしく思う。ゆっくりでいいのだ。ひと言ひと言かみしめながら。今しばらく、この世界に留まろう。
読了日:07月12日 著者:イルマ ラクーザ
プルーストへの扉プルーストへの扉感想
扉の向こうは無限のひろがり! マルセル・プルースト生誕150年の記念日に。
読了日:07月10日 著者:ファニー・ピション
仕事の喜びと哀しみ (K-BOOK PASS 1)仕事の喜びと哀しみ (K-BOOK PASS 1)感想
Kindle版のサンプル読んだら捕まって、思わずその場でポチッてしまったのだが、後悔はしていない。
読了日:07月05日 著者:チャン リュジン
壊れた世界の者たちよ (ハーパーBOOKS)壊れた世界の者たちよ (ハーパーBOOKS)感想
長い間、どうしているだろうかと気になって、また会いたくてたまらなかったニール・ケアリーに再会!痛々しくはあったけれど、幸せそうで良かった。笑っていてくれて、本当によかった。それだけでもう満足だ。
読了日:07月04日 著者:ドン ウィンズロウ
エルサレム〈以前〉のアイヒマンエルサレム〈以前〉のアイヒマン感想
読みたかった本を書評サイト本が好き!を通じていただいた。読み始めた直後は、著者がなぜこれほどまでにアイヒマンにこだわるのかがわからなかった。アイヒマン一人に焦点を当てすぎれば、逆に「ユダヤ人問題の最終解決」の本質が見えにくくなってしまうのではないかという疑念もあった。けれども読み進めていくうちに、エルサレム<以前>のアイヒマンを明らかにすることは、エルサレム<以後>に明らかになったあれこれをもって、歴史を再検証すると同時に、エルサレム<以後>の国民社会主義の動向を分析することでもあったのだと気づき…
読了日:07月01日 著者:ベッティーナ・シュタングネト

読書メーター

ヴァージニア・ウルフの『波』で翻訳読み比べ。

 

 

 

 『波』(原題:The Waves)は、1931年に発表された、ヴァージニア・ウルフ7作目の長編で、ウルフの著作の中でも“最も実験的”と評されることの多い作品だ。

私は以前この作品をみすず書房から出ている川本静子氏による翻訳で読んだのだが、語り手なる者は存在せず、構成は複雑、エピソードとエピソードの合間に挟み込まれる散文詩のような美しい挿入文も、おそらく相当に翻訳者を泣かせたに違いないと思っていたので、45年ぶりに新訳が出たと聞いては、読み比べずにはいられない!というわけで2冊並べて読んでみた。

まずは冒頭の散文詩的な一節を、森山恵氏が訳された早川書房の新訳(以下早川版)からご紹介。

太陽はまだ昇っていなかった。海が、布のなかの襞のようにかすかに皺立つほか、空と見分けるものとてない。空がほの白むにつれ、海と空を分かつ暗い一線があらわれ、灰色の布は、ひとつ、またひとつ、あとからあとから走るいくつもの太い筋によって縞目をつけられ、水面のしたのその筋は、果てしなく、たがいの後を追い、追いかけあった。

ちなみに襞(ひだ)と水面(みなも)にはふりがながついている。

続いてみすず書房ヴァージニア・ウルフコレクション、川本静子氏訳(以下みすず版)から

 陽はまだ昇らなかった。縮緬皺を寄せたかのようなさざ波が海面にひろがるほかは、海と空の区別はつかなかった。空が白むにつれ、海と空を劃す一線がしだいに色濃くなると、灰色の海には幾筋もの大波が湧き起こり、次から次へ、追いかけ追いかけ、絶えることなくうねり寄せた。

ちなみにふりがなはない。


続いて寄宿学校卒業間近のスーザンの胸の内
まずは早川版

「カレンダーから五月と六月のぜんぶを破ってやったわ」とスーザンは言った、「それに七月の二十日間を。ぜんぶ破ってぎゅっとまるめたから、もう存在しないってことよ。ただ脇腹のしこりとしてあるだけ。まるで羽根がしぼんで飛べない蛾みたいに、身動きできない日々だった。それもあとたった八日で終わる。八日後の六時二十五分には、汽車を降りて駅のホームに立っている。(p59)


続いてみすず版

 「日めくりから五月と六月をすっかりちぎり取ってしまったわ」、スーザンは言う、「七月も二十日までは。ちぎり取って丸めてしまったから、もう存在しないも同然よ、わき腹を圧迫しているだけで。どれも片端の日々だったわ、羽が干からびて飛べない蛾のように。もう、あと八日残っているだけ。八日経つと、六時二十五分に汽車からプラットフォームに降り立つの。」(p46)



青年になってパーシヴァルの壮行会のために再び集まった時のロウダの胸の内
早川版では

 「でもわたしは何より居場所がほしいから、ジニーやスーザンに遅れて後から階段を昇りながら、目ざすものがあるふりをしていた。二人がソックスを履くのを見れば、わたしも履く。あなたたちが話すのを待って、それをまねて話す。わたしはロンドンをつっ切ってここに、この時点、この場所へ引き寄せられて来る。でもそれは、あなたに会うためではなく、あなたでも、あなたでもなく、人生を存分に、不可分に、憂いなく生きるあなたたち全体の激しい炎で、わたしの火を燃えたたせるためなんだわ」(p146)



みすず版 

 「だけど、足がかりの場が何よりも欲しいので、ジニイやスーザンについてのろのろと階段を上がりながら、目的があるふりをするの。彼女たちが靴下をはくのを見ると、私もはくの。あなたたちが口を開くのを待って、そのあとであなたたちのように口をきくの。私がロンドンを横切って、この地点に、この場所にきたのも、あなたやあなたや、それからあなたに会うためではなくて、そっくりまとまって、懸念することもなく生きている、あなたがた皆の強い炎で、自分の火をともしたいからなの。」(p119)

 

中年になって再会する場面はバーナードの胸の内から。
早川版では

 「ほら、あそこのホテルに近いドア、あそこが待ち合わせの場所だ。おや、もう来ているぞ--スーザン、ルイ、ロウダ、ネヴィルだ。もう来ていたのだ。一瞬後におれが加わると、たちどころにまた別の配列が、別の型が形成される。いまは無駄になろうが構わず、いくらでも自由に場面をなしているのに、それが堰きとめられ、固定される。おれは強要されるのは嫌なのだ。五十ヤード離れていても、すでにおれの存在の秩序は変化させられていると感じる。仲間内の磁力が働いているのだ。(p241)


続いてみすず版

 「あそこに、われわれが落ち合う宿屋の入口に、彼らはもう立っているぞ--スーザンと、ルイスと、ロウダと、ジニイと、ネヴィルが。もうすでに集まっているのだ。僕が加わると、すぐに、別の取り合わせができるだろう、別の型が。おびただしい光景を作り上げながら、いま空しく費やされているものが食い止められ、規定されるだろう。そうした強制は受けたくないな。すでに五十ヤード離れたところで、僕の存在の秩序が変えられていくのが分かる。彼らの集いの磁石のような牽引力が、僕の上に影響を及ぼす。(p195)




読み比べもさることながら 先のレビューで、“読者は、彼らが口にした言葉から、あるいは各々の胸の内で、自分自身やお互いにについて言及する際にもらすほんのわずかな断片的情報から、あれこれと推し量るしかない”と私が述べた意味が少しは分かって戴けたのではないだろうか。

『波 (ヴァージニア・ウルフコレクション)』

 

 『波』(原題:The Waves)は、1931年に発表された、ヴァージニア・ウルフ7作目の長編で、ウルフの著作の中でも“最も実験的”と評されることの多い作品だ。

あなたは「波」と聞いて、なにを思い浮かべるだろうか。

寄せては返す
大波小波
次々に打ち寄せる
波頭が崩れる

海を見ながら波について考えていると、浮かんでくるあれこれがすべて、この物語に当てはまるような気がしてくるから不思議だ。

この物語を……これは確かに物語ではあるのだが……どんな物語であるかを紹介することはとても難しい。

主な登場人物をあげることならできる。

バーナード、ネヴィル、ルイス、スーザン、ジニイ、ロウダの6人。

幼年期にはじまって、学生時代、青年期、そして中高年…と、物語の中で時は流れていくのだが、ひととおり読み終えてみても、彼らのうち誰一人として、くっきりと浮かび上がってくる人物はおらず、何が起こったのかさえはっきりと順序立てて説明することはできない。

それは、この物語に「語り手」がいないためで、読者は、彼らが口にした言葉から、あるいは各々の胸の内で、自分自身やお互いにについて言及する際にもらすほんのわずかな断片的情報から、あれこれと推し量るしかないからだ。

誰かが誰かに想いを寄せ、誰かが誰かに嫉妬し、誰かが誰かを疎ましく思い、誰かが誰かをうらやむ。

コンプレックスもあれば優越感もあるし、愛もあれば友情もあり、希望もあれば諦めもある。

ページをめくるたびに、6人の胸の内が次々と押し寄せて、ようやくつかんだと思うとまた離れていく。

そう聞けば、なるほどこれは6人の男女の成長譚なのか…と思う方がおられるかもしれないが、そうとも言い切れない。

もう一人、自らはひと言も発せず、胸の内のかけらも明かすことがない、それでいて圧倒的な存在感のあるパーシヴァルという人物もいたりして…。


そしてまた、「意識の流れ」の波間、エピソードとエピソードの合間に、挟み込まれた詩的散文も重要な構成要素だ。
夜明けから日没まで刻々と姿を変える海、日の光、鳥のさえずり、自然の営みを見事に表現するこの美しい散文が、人間たちの物語に彩りを添えるだけでなく、打ち明けられることのないあれこれを見事に補っているかのようだ。

あえていうまでもなく、人間の営みもまた、大きな流れの中ではとてもちっぽけなものだということは、誰だってわかっているはずのことではあるのだけれど……。