かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『無声映画のシーン』

 

彼には、リスボンを訪れるときには必ず立ち寄るカフェがある。
そこではポルトガルの多くの居酒屋や商店と同じように、
時間は止まっているだけでなく、逆方向に流れていると彼は言う。
他と違う点はといえば、
その店には古い壁時計があって、
その針と時間は奇跡のように逆向きに進んでいるというのだ。


そんな時計が本当にあるのかどうかはわからないが、
母親が死ぬまで大切にしまっていたという30枚の写真を前に、
彼は人生の最初の12年間を過ごした山間の鉱山町でのあれこれを思い出す。
その一瞬を閉じ込めたかのような写真の一枚一枚が、
彼を遠く過ぎ去った過去へと呼び戻す。


自分が実際に覚えていることなのか、
写真を見て、あるいは家族から繰り返し聞いてきた思い出話を
自分の記憶と混同しているのかは、彼自身にも分からない。
けれども写真を手にした彼の脳裏には、
写真がとらえた瞬間だけでなく、
撮られた頃のあれこれが、鮮明に浮かび上がってくるのだ。


一緒に遊んだ少年たち、
丘の上で手を取り合ってダンスを踊った美少女、
家を出て行く兄を乗せたバス……
文字で綴られたそれらの情景が、
本を読んでいる私の目の前にも
モノトーンの古びた写真として浮かび上がってくる。
同時になぜか、
幼ない頃の私自身のスナップ写真までもが
くっきりと浮かび上がってくる不思議。


物語であると同時に、美しい詩のようでもあり、
一瞬をとらえた写真のようであると同時に、
写った人々が生き生きと動き出す映像のようでもあり、
彼の物語であると同時に、鉱山町の物語であるこの本は、
読み進めていくうちにいつしか、私自身の物語まで語り出す。
それはたぶん、古いアルバムをめくるよりも鮮明に
けれどもやはり、
白黒の無声映画のようにカタカタという音だけを響かせて
静かにゆっくりと。

            (2012年12月20日 本が好き!投稿