かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『モーメント・アーケード』

 

“モーメント・アーケード”は、見知らぬ誰かが体験した記憶のデータをショッピングできる場所。

「会社員のお昼休みに体験したモーメント」「人気女優のモーメント」「ノミの心臓を持つビビリのホラー映画鑑賞モーメント」「恋人とデートするモーメント」

短く編集されたあらゆる人生の“瞬間(モーメント)”が売り出されている。

主人公兼語り手の「私」はそんなモーメント・アーケードのユーザー。
流行のコンテンツには見向きもせずに、ひたすら再生回数の少ないリストの中から良質な“瞬間”を見つけ出すべく骨を折る。

そんな「私」が見つけたのは“日が暮れかけた午後遅く、公園で恋人と手をつなぐ女性のモーメント”。

女性の目を通してそのモーメントを体験した「私」は、どうしてもその恋人に会いたいという気持ちを抑えることができなくなってしまったのだった。

第4回韓国科学文学賞(中短編部門)大賞受賞作で、映画化も進行中だというこの作品。

SFなのかと思いきやもしかしてホラーだったの!?と戸惑いながら読み進めると、実はこの「私」、幼い頃からかなり深刻なネグレクト体験をしてきた末に、認知症の母親をようやく看取ったという経歴の持ち主で、物語は読者の予想とは全く違う方向に。

短篇の中に、ずしりと重い物が詰まった作品。
と同時に、私ならどんな“モーメント”を売りに出すだろう?などと、思わずあれこれ想像してしまう軽やかさも兼ね備えてもいる不思議な読み心地の物語だった。

 

『ジーキル博士とハイド氏』

 

原題は“The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde
映画は観たことがある。
子ども向けに書き直された簡易ヴァーションなら読んだこともあるかもしれない。
けれども作品そのものを読むのは今回が初めて。
こちらも津村記久子さんの『やりなおし世界文学』からの派生読書だ。

二重人格を題材としていることで有名な作品だと認識していたが、読んでみるとこれは怪奇&探偵小説なんだなあと改めて。

舞台は十九世紀のロンドン。
狂言回しと探偵役を兼任するのは弁護士のアタスン。
愛想がなくて、垢抜けず、感情を表に出さないがどこか憎めないところがあるというこの紳士、常に自らを厳しく律し、芝居好きにもかかわらず、劇場にはもい二十年も足を向けていない。
そのくせ他者への寛容は人も知るところなのだとか。

その彼は、友人であるジーキル博士から預かっている遺言書のことが気になっていた。
この遺言書には、ジーキル博士が死ぬか失踪するかした際には、すべての財産をハイドという男に遺贈すると書かれていたのだ。

だがジーキル博士と長年の友人であるアタスンにも、ハイドという名前の男に心当たりはない。

いったいこの男は何者なんだろう?と思っている矢先に、ハイドの悪い噂を耳にする。

ハイドがジーキルの財産を狙って恐喝しているのではないかと危惧したアタスンは、ハイドとの接触を試みようとするのだが……。

人格識見にすぐれた著名人で世間からも信頼を寄せられている紳士ジーキルが、自ら発明した薬を飲むことによって悪の権化ハイドに文字通り変身する。
だがハイド(hyde)という名前は、隠れる(hide)に掛けたもの。
ジーキルが元々持っていて世の中の目からひたすら隠し続けていた部分を、心置きなく表に出すために生み出されたもう一人の人格、それがハイドだったのだ。

興味深いのはこの変身。
性格や顔つきが変わるだけでなく、背格好まで変化するのだという。
昔の作品なので差別的な表現があることには目をつぶるとして、ハイド氏が小柄で若くか細いのは、抑圧されてきたために未発達な部分があるからだろうという。
人間は皆、善と悪の共同体なのに、“混じりけなしの純粋な悪”を体現するハイドは、会う人会う人に本能的なおびえを感じさせ、自分の悪行を悔いることもない。

対する、ジーキル博士はどうか。
ハイド=自分だということがバレて司直の手がのびるのではないかとか、やがて自分がハイドに乗っ取られるのではないかとおびえてはいるが、ハイド=自分が犯した罪を悔いる様子はみられない。

善と悪を切り離しても“混じりけなしの純粋な善”は生まれないということなのか。

この物語を語るのが、ジーキルでもハイドでも、ジーキルと同業の医者でもなく、必要とあらば悪人の弁護もいとわない、弁護士アタスンであるという点も実に興味深い。
もちろん、近代社会においては、いかなる悪人も弁護を受ける権利があるが、著者はこの点について人権問題とは違う理由があるようにほのめかしているように思われる。
なぜってこのアタスン、品行方正でどこまでも禁欲的な人物なのだ。

彼の中にある顕在化していない「悪」は、どんな形をしているのだろう。

一つの事件が終わった後に残る余韻もまた、不気味ではある。

 

 

 

『白い汽船』

『白い汽船』Ch.アイトマートフ (著), 岡林 茱萸 (翻訳)/理論社 (1984/12/1)

先日読んだユン・フミョンの『白い船の中にこんな一節があった。

キルギスタンの小説家アイトマートフが書いた『白い汽船』という小説のことも教えてくれた。両親が離婚したため湖畔の祖父の家で暮らしている少年が、湖に浮かぶ白い船を眺めて、大きな魚になって船まで行きたいと夢みる物語だという。(p39)

 

この一節に惹かれて手にしたのがこの本だ。

キルギスの作家チンギス・アイトマートフは1928年生まれ。
収録されている3作はいずれも、ソ連時代に書かれた物で、社会主義国となったキルギスに生きる人々を描いている。

3作中もっとも短い『兵士の息子』は、戦死した父親の記憶を持たない少年が、戦争映画の中に自分の父親を見いだし、見いだしたが為に喜びや誇りを感じると同時に、喪失を実感することになるというとても切ない物語だ。

『らくだの眼』は、大きな期待を胸に開拓地へ赴任してきた若者の目を通して、働くことの意味を問いながら社会の現実や展望を描いた作品。
ソビエト文学らしいといえるかもしれないが、主人公の青年が時折、我を忘れるほどうっとりと見とれてしまうほどの美しい自然と、つらく苦しい現実の対比があざやかな作品でもある。

そしてなんといっても印象的なのは表題作『白い汽船』。

森林監視員たちの小さな集落で暮らす少年は、幼い頃に両親が離婚、それぞれが別の家庭を持ったが為に、母方の祖父の元で育てられている。
彼のことを心から気に掛けているのは祖父だけなのだが、その祖父は監視員である横暴な娘婿の下で補助労働者として身を粉にして働いている。
祖父がよく少年に語って聞かせたのは自分たちブグー一族の祖先は、「大角の母鹿」によって助けられ、育てられた少年と少女であったという伝説だった。
一族のものなら誰でも自分の兄弟だと信じる働き者の老人は、誰にでも親切で、誰のためにも尽くすお人好し。
そんなお人好しのおじいさんに育てられた少年は、山の上から双眼鏡でイシイク・クーリという大きな湖を眺めるのが大好きだ。
かなたの湖に浮かぶ白い汽船を眺めては、魚になって、あの船まで泳いでいって、船員をしている父親に会いに行くことを夢見ているのだ。  

だがしかし、現実の暮らしはとても残酷で、叔母は毎日のように酔った亭主に殴られて、娘のそんな様子を目の当たりにしながらも祖父は、雇い主でもある娘婿に対しどうすることもできずに心を痛めるばかり。

山間のこんな小さな集落にあっても、横領や不正は日常茶飯事、正直者が馬鹿を見る。

少年は見聞きしたこと考えたことをそっと、祖父に買ってもらった大切なカバンに打ち明けるのだった。

そんなある日、森に鹿が現れて……

それにしても、なんという美しさだろう。
そしてまたなんて残酷なんだろう。
まさかこんな結末が待っていようとは!

こんな作品を知らなかったなんて!と思ったら、映画化もされているかなり有名な作品なのだそう。

少年は自分と話すのが好きだった。しかしいまは、かれは、自分にではなくカバンに語りかけるのだ。


この1節にピンときたあなたには特にお勧めだ。

『白い船』

 

 

1946年生まれの作家、ユン・フミョンが1995年に発表した本作は、同年李箱文学賞を受賞している作品だ。

韓国の小説文学が新しい技法、主題、言語、構造によってその地平がさらに広がり、叙情的で格調ある繊細な言語で小説世界を構築したと評価された”(訳者あとがきより引用)というこの作品は、語り手である作家が、ソ連崩壊後の中央アジア韓民族の同胞を訪ねる物語だ。

きっかけは、カザフスタンの首都にある韓国教育院を通じて、ソウルに住む作家の元に送られてきた文章……韓国語を知らない少年が祖父の故郷に想いをはせる「韓国語を学ぶ子ども」と題された1編の物語だった。

この物語(作中作)をきっかけに、作家は中央アジアへと旅立つのだ。

ウラジオストクを中心としたソ連の極東地方に移り住み苦労しながらもなんとか暮らしていた韓民族が1937年前後に中央アジア強制移住させられた経緯については、ちょうどテリー・マーチンの『アファーマティヴ・アクションの帝国』を足がかりにあれこれ派生読書をしていることもあってとても興味深かったし、さらにはソ連崩壊後の各地の各民族がおかれた状況についてもいろいろ考えさせられもした。

もっとも、この物語の一番印象的なのは、なんといっても冷たい水をたたえた湖と雪をかぶった天山山脈の美しさだ。
その描写は、見たことのない風景に憧れを抱くには十分で、いつか私も……と、思わず旅情をかき立てられた。

 

 

 

『椿姫』

 

津村記久子さんの『やりなおし世界文学』をきっかけにはじめて『椿姫』を読んだ。  

 

 

・舞台がパリであること
・「椿姫」が高級娼婦であること
・決して金持ちとは言えないうぶな青年が恋に落ち「椿姫」に猛アタックすること
・死が二人を分かつという悲恋で終わること

等々、読まなくても大まかなことは知っているつもりだった。

がしかし冒頭、「椿姫」が冒頭既に故人であるとは思ってもみなかった。
そればかりではなく、勝手に思い描いていたものとは違うところがあれこれあって、やっぱり読んでみるものだな…などと、改めて思ったりもした。

物語は、作家(語り手)が競売を知らせるポスターに目を留めるシーンから始まる。
骨董品に興味があるという作家は、早速下見にでかけ、この競売が高級娼婦の遺品を対象にしたものだということを見て取り、故人が「椿姫」ことマルグリット・ゴーティエその人であることを、アパルトマンの守衛から聞き出す。

生前、シャンゼリゼ通りで頻繁に目にした彼女は、ほかの高級娼婦とは全く違う気品をもっており、そのずば抜けた美しさがさらにその気品を際立たせていた。
そうした在りし日の光景を思い浮かべてた作家は、見事な美術品が打ち砕かれてしまったのを惜しむように彼女の死を惜しんだ。

そうして競売に出かけていって、通常の十倍の値段で1冊の本を競り落とす。
その本、『マノン・レスコー』には、マノンをマグリットに贈る。その慎み深さにという短い献辞と共に「アルマン・デュヴェル」と署名が添えられていた。

アルマンによれば、マグリットはマノンよりも、慎み深さが足りないといいたいのか、それともマグリットの慎み深さをたたえているのか?と首をかしげた作家はしかし、しばらく後、アルマン・デュヴェルの訪問をうけ、彼とマグリットの恋の一部始終を聞かせられることになろうとは、そのときは思いも寄らなかったのだった。

作家が聞き取ったという形で語られるこの物語、アルマンのモデルが著者のデュマ・フィス自身で、「椿姫」ことマグリットのモデルも実在したのだという。

青臭い青年が高級娼婦に夢中になる話は、今では特にめずらしくもないのだろうが、この物語が書かれたころは、実在の人物たちがモデルということもあって、とても話題になったらしい。
その後も、オペラに芝居に映画にと様々な形で親しまれてきたのだから、やっぱり名作なのだろう。

だがしかし、死に際に会えなかった想い人の死を受け入れられずに、墓を掘り返して、せめてもう一度、ひとめだけでも…というほどのアルマンの執着はやっぱり怖い。
美しい人がはかなく逝ったというのなら、せめて椿の花のように、散ってなお美しい原型をとどめたままに記憶しておけばいいものを。

仕事もせずに親の金で暮らす“高等遊民”でありながら、恋におぼれて周りを振り回すこの若者には、どうにも同情する気になれない。

それでも審判の日マグリットが神の前にたったとき、アルマンの父や妹を救ったことが善行として認められるというなら、それはそれでよかったのかもと思ったりもする。

それにしても、椿姫といい、マノン・レスコーといい、「運命の女」といわれる女の多くは、「運命の男」に出会ってしまったが為に、とんでもない人生を送らざるを得なくなった「不運な女」なのではないかという気がしてしまうのだった。

『目で見ることばで話をさせて』

 

無音。耳が聞こえない人のことをよく知らない、耳が聞こえる人は、そう思うにちがいない。わたしたちの生活は静寂に包まれているって。でも、ちがう。気持ちも心も元気で楽しいときに、わくわくしながら前を向いていると、ちっとも静かなに感じない。楽しいとき、わたしの心はハチのようにブンブンにぎやかだ。つらいときだけは、なにも感じず悲しみでいっぱいだから何の音もしなくなる。ちょうど今みたいに、母さんとふたりきりで家にいるときは。


主人公は11歳の少女メアリー。
彼女は耳が聞こえないが、そのことを特に苦にしている様子はない。
苦しんでいるのは別のこと。
彼女の目の前で、兄のジョージが事故で死んでしまって以来、信仰について、母や身近なあの人この人について、いろんなものや人の見え方が変わってきてしまったのだ。

元々彼女は結構おしゃべりだ。
家族とも友達とも、近所の人たちとも、手話を使って話す。

相手が手話を知らなかったら……。
そんな心配は無用だ。
メアリーの住むマーサズ・ヴィンヤード島では、耳が聞こえない人も聞こえる人も誰もが手話を話すのだから。

メアリーのお父さんも、親友のナンシーの両親も耳が聞こえない。
ナンシーには音楽の才能があるが、ナンシーのお父さんは、ナンシーが耳の聞こえない両親の前でリコーダーを吹くのは失礼だっておこるのだという。
メアリーなら、リコーダーを吹くナンシーをながめながら、自分なりの方法で音楽を体験することができるのに。

そんなメアリーが得意なことは物語を紡ぐこと。

でも、ある日、島にやってきた一人の若い科学者が、メアリーの世界を一変させてしまう。

あの出来事以来、それまで書いてきた物語はすっかり色あせてしまった。
もっと大切なテーマをみつけて、書かなければいけないという気がするのだ。

これはそんなメアリーが実際に体験した出来事を綴った物語……という設定の“歴史フィクション”だ。

実際、1640年~1800年代後半まで、マーサズ・ヴィンヤード島のチルマークでは遺伝性難聴が一般的で、一時期は25人に1人に、さらに小さな地域に限れば4人に1人に、生まれつきの聴覚障害があったのだという。

そんな環境で育ったメアリーが突然、手話が通じず、聞こえない彼女を偏見と蔑みで“劣っている者”と見なすような社会に放り出されたら…。


実のところ読み始める前は、手話を母語とする少女の心温まる成長譚なのだろうと思い込んでいた。
その予想は全くの的外れというわけではなかったのだが、読んでみるとこれが、スリルもサスペンスもたっぷりのなかなかハードな冒険譚で、いろんな意味で盛りだくさん!?

聞こえない者に対する偏見を持たない島の人たちの多くが、先住民族や黒人に対しては根強い偏見をもっていることをもするどく描き出していて、メアリーがそのことに疑問や憤りを感じている点も読み逃すことができない。

こうした状況を浮き彫りにすることで、“障害は人ではなく「社会の側」にある”というところまで踏み込んでいく下地となりうるか。

YA小説の奥は深い。本当に深い。


実はこの本を読んでいる最中にちょうど、“道立のろう学校に通う児童が、母語にあたる日本手話で学ぶことができず教育を受ける権利を侵害されたとして、北海道に損害賠償を求める訴えを起こした。”というニュースを目にした。

“手話という母語で教育を受ける権利”
訳者あとがきで触れられている、続編の物語に通じるものがありそうで、そちらの翻訳刊行も待ち遠しい。

 

『ニューヨーク製菓店』

 

私が生まれた時、そこにニューヨーク製菓店はあった。
ニューヨーク製菓店は私が生まれる前からそこにあったから、死んだ後にもしこにあるものと気ままに考えていたようだ。もちろん、人生はそういうものではない。



「ニューヨーク製菓店の末っ子」として生まれ育った作家が語るのは、幼い日の思い出、故郷のこと、そしてパン屋を切り盛りしていた母のこと。

作家が生まれる前から当たり前のようにあったから、そのままずっとそこにあるものだと信じて疑わなかった頃の思い出は、そのまま作家の母の半生でもある。

その場所に立ち戻っても既に店はなく、あの頃に戻りたくても戻ることはできない。

それでも、 ニューヨーク製菓店はかつて、確かにそこにあって、店と母とパンが、 作家を育んできたことは、紛れもない事実で。

その思い出が、作家の心に小さな灯りをともすとき、読者もまた、自分の原点に思いを馳せて、小さな灯火で暖をとる。

ここではないどこかに、無性に帰りたくなる1冊だ。