かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『ジーキル博士とハイド氏』

 

原題は“The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde
映画は観たことがある。
子ども向けに書き直された簡易ヴァーションなら読んだこともあるかもしれない。
けれども作品そのものを読むのは今回が初めて。
こちらも津村記久子さんの『やりなおし世界文学』からの派生読書だ。

二重人格を題材としていることで有名な作品だと認識していたが、読んでみるとこれは怪奇&探偵小説なんだなあと改めて。

舞台は十九世紀のロンドン。
狂言回しと探偵役を兼任するのは弁護士のアタスン。
愛想がなくて、垢抜けず、感情を表に出さないがどこか憎めないところがあるというこの紳士、常に自らを厳しく律し、芝居好きにもかかわらず、劇場にはもい二十年も足を向けていない。
そのくせ他者への寛容は人も知るところなのだとか。

その彼は、友人であるジーキル博士から預かっている遺言書のことが気になっていた。
この遺言書には、ジーキル博士が死ぬか失踪するかした際には、すべての財産をハイドという男に遺贈すると書かれていたのだ。

だがジーキル博士と長年の友人であるアタスンにも、ハイドという名前の男に心当たりはない。

いったいこの男は何者なんだろう?と思っている矢先に、ハイドの悪い噂を耳にする。

ハイドがジーキルの財産を狙って恐喝しているのではないかと危惧したアタスンは、ハイドとの接触を試みようとするのだが……。

人格識見にすぐれた著名人で世間からも信頼を寄せられている紳士ジーキルが、自ら発明した薬を飲むことによって悪の権化ハイドに文字通り変身する。
だがハイド(hyde)という名前は、隠れる(hide)に掛けたもの。
ジーキルが元々持っていて世の中の目からひたすら隠し続けていた部分を、心置きなく表に出すために生み出されたもう一人の人格、それがハイドだったのだ。

興味深いのはこの変身。
性格や顔つきが変わるだけでなく、背格好まで変化するのだという。
昔の作品なので差別的な表現があることには目をつぶるとして、ハイド氏が小柄で若くか細いのは、抑圧されてきたために未発達な部分があるからだろうという。
人間は皆、善と悪の共同体なのに、“混じりけなしの純粋な悪”を体現するハイドは、会う人会う人に本能的なおびえを感じさせ、自分の悪行を悔いることもない。

対する、ジーキル博士はどうか。
ハイド=自分だということがバレて司直の手がのびるのではないかとか、やがて自分がハイドに乗っ取られるのではないかとおびえてはいるが、ハイド=自分が犯した罪を悔いる様子はみられない。

善と悪を切り離しても“混じりけなしの純粋な善”は生まれないということなのか。

この物語を語るのが、ジーキルでもハイドでも、ジーキルと同業の医者でもなく、必要とあらば悪人の弁護もいとわない、弁護士アタスンであるという点も実に興味深い。
もちろん、近代社会においては、いかなる悪人も弁護を受ける権利があるが、著者はこの点について人権問題とは違う理由があるようにほのめかしているように思われる。
なぜってこのアタスン、品行方正でどこまでも禁欲的な人物なのだ。

彼の中にある顕在化していない「悪」は、どんな形をしているのだろう。

一つの事件が終わった後に残る余韻もまた、不気味ではある。