かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『バーナデットをさがせ!』

 

アメリカの人気テレビ脚本家が書き、2019年にケイト・ブランシェットの主演で映画化もされていると聞いて、「トレンディ系の作品ね」と軽い気持ちでページをめくる。
「横書きか~。ちょっと読みつけないな」などと思いながら読み始めたら、あらやだ、ぐいぐいくるわ!

ちょっと変わった形式のこの物語、電子メールに手紙、請求書にFBI文書、精神科医との通信に、問合せへの回答書、さまざまな形式の文書で構成されている。

これらの文書をつなぐのは、シアトルのゲイラーストリート校8年生、ビー。
卒業後は東部の名門寄宿舎学校に進学予定だという成績優秀の彼女の辛辣でするどい洞察力が、大人たちの間で交わされた文書に切り込んでいく。

タイトルからしてとにかくバーナデットをさがさなければならないことは明かだ。
でもバーナデットって誰?
というところから、物語は語り始められると思うでしょ?
でも冒頭は、とにかくビーの成績が抜きん出て素晴らしい!という成績表からはじまるのだ。
ビーはそれをみせながら、両親に思い出させる。
「最高の成績をキープできたら、卒業プレゼントとしてなんでも欲しいものをくれる」って約束したことを。

そんなわけでビーは、パパとママと三人で、南極旅行に行くことに。
とはいえ、南極への道は決して平坦ではなかったのだ。

ツアー代金がどれぐらい高かろうが費用の面で問題はなかった。
なにしろビーのパパ、エルジン・ブランチは、マイクロソフト社のホープ、仕事人間で働き過ぎのきらいはあるが、高給取りであることは間違いなかった。

支度についてもほぼ問題ない。
南極旅行には防寒グッズや船酔いの薬をはじめ、様々な準備が必要だったが、その支度はビーのママ、バーナデット・フォックスが一手に引き受けた。
っといっても、思いつく先からインドにいるバーチャル秘書にメールして、丸投げするだけではあったのだけれど。
あっ!ここでバーナデット!ビーのママの名前だったのか!

問題はこのママ、バーナデットがかなりの変わり者で、人嫌いの引きこもりゆえに、たとえ愛する娘の願いを叶えるためであっても、長い船旅に耐えられるかどうかという点にあるようだった。

おまけに南極行きの準備と並行して、なかなかハードなご近所トラブルが発生し!?

なにしろバーナデット、ママ友の一人もいないばかりか、多くの保護者たちと険悪な関係にあったのだ。

とりわけ、ゲイラーストリート校の評判を高めるために自宅でパーティーの開こうというお隣のオードリー・グリフィンとの仲は最悪で……。

いやしかしこれはすごいね。このノリ!このテンポ!
メールや手紙だけで、この個性的な面々を書き分ける手腕もお見事。

でもこの変わり者のバーナデットっていったいなにもの!?と思っていたら、次第に意外な過去が明かされて……!? 

ある日、突然いなくなってしまったママを探すビーが、手がかりを求めて読み進める、あの手紙、このメール。
少しずつ明らかになっていくあれこれを元に、読者もまたビーと共に頭をひねる。

でもまさか、あんな展開がまっていようとは!!


もちろんこれはタイトル通り、いなくなったバーナデットを探す話ではあるのだけれど、バーナデット自身が自分を探す話でもあった。

笑ったり、怒ったり、うるっときたりとなかなかに忙しいが、ページをめくる手が止められず、思わず一気読み!
うん!なんだか元気が出てきたぞ!

もっとも、身勝手な大人たちに翻弄される子どもたちが、かなり気の毒ではあったけれどね。

祝★やまねこ翻訳クラブ結成25周年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

絵本あり、児童書あり、YAあり、ミステリあり、ノンフィクションあり、一見何のつながりもなさそうな25冊の本は、25周年にちなんで、今年読んだやまねこ本。

さすがやまねこ本!いずれも見応え読み応えのある忘れがたい作品だ。

 

やまねこ翻訳クラブの皆さんのますますのご活躍と会の発展を願って、改めまして結成25周年おめでとうございます!

 

30周年の折にはぜひまた、お祝いの読書会オフやりたいですね!

 

 

 

『処刑の丘』

 

銃声がヒルダの夢の中に割り込んできた。
彼女ははっと上体を起こし、慌てて息子のベッドを確認するも空だった。
不安に胸を締めつけられて、ドアの側面に寄りかかる。
イスモは何をしているのか、もう幾晩も出歩いていて、銃声は恐れていたことの答えのような気がした。

いや違う。きっとピルトゥの密売人同士の争い違いない。
彼女はそう自分で自分をなだめにかかる。
密造酒は人を狂わせる。

銃声はヒルダに内戦のころのことを思い出させた。
白衛隊は騎馬でやってきて、道々赤衛隊の兵士を大量に撃った。
メテリンマキの丘、黒い岩に囲まれたその場所で彼らが遭遇したのは、赤衛隊の戦列に加わっていたがすでに武器をすてた、ふたりの若い娘。
ヒルダとアウグストの長女テューネは、あの丘でまず銃で撃たれ、銃剣でとどめを刺されて殺されたのだ。

のちに二年の収容所暮らしを経てもどってきた夫アウグストは、外見こそ無傷だったが、精神的には処刑されたも同然だった。
働き者で腕のいい靴職人だった彼は、今では年中頬杖をついて座り込み、酒浸りになっている。

そんな夫と息子と娘を抱えつつ、今や名実ともに一家の大黒柱として汗水垂らして働くヒルダは、公共サウナのマッサージ係。
彼女はその職場で、ロシア人もドイツ人も、赤も白も、犯罪者も警官も、ありとあらゆる人々の汗を流してきたのだった。



物語の舞台は、フィンランドの首都ヘルシンキから北へ100キロ、湖水地方にある町ラハティ。
19世紀初頭から帝政ロシアの大公国だったフィンランドは1917年に独立を宣言したが、ロシアのボリシェビキの支援を受けた赤衛隊と、ドイツの支援を受けた白衛隊とに引き裂かれ内戦が勃発した。
ラハティは、激しい攻防を繰り広げられたことで知られる町だ。
1920年代、白色勢力による新政府になった後も、人々の間に生じた亀裂は埋まらず、多くの人の心に深い爪痕を残していた。

物語はそんな歴史をつぶさにみつめてきたであろうサウナと、そこで働くヒルダが家族とともに暮らす町を舞台に繰り広げられるミステリ。

かつての虐殺の舞台となったあの丘での殺人事件の真相に挑むのは、警察署の中でも異色の経歴をもつ警官ケッキ。
帝政ロシアの大公国時代からいくたびもの粛清の嵐を生き延びてきた彼は、優れた職務遂行能力と協調性を持ってはいたが、正義と真相を追求するにはあまりにも困難な状況においやられている彼の苦悩と、人々の複雑な胸の内が織りなす、この警察小説は、フィンランドの歴史を紐解く物語としても興味深い。

またまたあちこちに派生読書の蔓が伸びていく予感。
もちろん、この物語の続編で、クマのように大柄な警官ケッキとの再会も期待したいところだ。

『花びらとその他の不穏な物語』

 

2021年夏の刊行以来、多くの読者を引きつけてやまない 『赤い魚の夫婦』に続く、現代メキシコを代表する女性作家グアダルーペ・ネッテル(Guadalupe Nettel)の邦訳短編集第2弾!

「もっとネッテル!」「待ってるネッテル!」と、ことある毎に叫び続けてはいたけれど、まさかこんなに早く、新刊を手にすることができるとは!
訳者や出版社はもちろん、私と同じようにすっかりネッテルに魅せられて、「もっと読みたい」と声を上げてきた多くの日本語版読者の皆さんにも感謝の気持ちでいっぱいだ。

収録作品は6篇。

まぶたの整形手術の術前・術後の写真撮影を仕事とするカメラマンの男が恋したのは、ある女性の手術前のまぶただった!(「眼瞼下垂」
夜、寝る前に一話だけ……と、読み始めたのが運の尽き!?
案の定、思いっきりまぶたが腫れる夢を見た。

ブラインドの隙間から、夜な夜な向かいの集合住宅の一室をのぞき見ては、その部屋に住む男のあれこれを妄想する女性。(「ブラインド越しに」

週に一度、家の近くの植物園に散歩に行く男は当初、植物には目もくれずただただ歩くだけだったのだが、やがて……。
日本を舞台にしたこの「盆栽」を読みはじめて、最初に思い浮かべたのはハン・ガンの 『私の女の実』だった。
自分を植物に例えるとしたら、あるいはこの人を…と、読みながら傍らを盗み見る。

“ほんものの孤独”を探し求める少女が、ひと夏を過ごすことになった離島で出会ったのは……。(「桟橋の向こう側」

あの店、この店の女性トイレに潜り込んでは「痕跡」を発見し、大真面目に分析しては、その主を探し求める男。(「花びら」
これを読んだらあなたもきっと、トイレを出る前に何度も何度も後ろを振り向いてしまうはず。

髪の毛を抜く癖がやめられずに、身も心も暮らしも人間関係も生活も壊れてしまったという、病院で療養中の女性の手記。(「ベゾアール石」


あの人もこの人も、他人には言えない習慣や、激しい思い込み、奇妙な癖がある。
どの作品も濃厚で、じわじわとせまってくる不穏ななにかが、身体にまとわりついてくるような独特の雰囲気を持っている。

読んでいるとぞわぞわしてくるこの“不穏”がネッテルの大きな魅力だと思うのだが、『赤い魚の夫婦』の4年前に書かれた作品ということもあるのか、『赤い魚の夫婦』よりはあたりは柔らか。
特に日本を舞台にした「盆栽」などは、海外文学を読みつけない方にも安心してお勧めできる。
もしかするとあなたもこのオチには、思わず「おおっ!」と声をあげるかもしれない。

『赤い…』でネッテルに魅せられたあなたにお勧めするのはもちろんのこと、“『赤い…』はちょっと強烈すぎて…”とおっしゃるあなたにも、本書でリベンジしてみるのもいいのでは…と声を掛けたくなる、そんな1冊だ。

 

 

 

 

『バッサ・モデネーゼの悪魔たち』

 

1998年11月のある夜明け頃、ボローニャの少年裁判所が発行した隔離令状をもって、ロレーナとその夫デルフィーノ・コヴェッツィの自宅に警察がやってきた。
夫婦の姪であり、ソーシャルワーカーに保護されていた8歳の少女の告発が原因だった。姪の証言によれば、ロレーナとその夫は、児童虐待や殺人に手を染めている邪悪なカルト集団の関係者だということだった。
夫妻の4人の子どもたちは緊急に保護され、両親は子どもたちに一切会うことができなくなった。
やがて子どもたちはそれぞれ別の家庭に引き取られる。

コヴェッツィ夫妻は裁判にかけられ、一審で懲役12年を、その後長い訴訟の末に2014年に無罪判決を言い渡された。
もっとも夫が訴訟の結末を見届けることはなかった。
彼はその前年に病死していたのだった。
ロレーナに残されたのは、当時まだお腹の中にいた第5子ステファノだけだった。
彼女はもう何年も前から、自分の人生をめちゃくちゃにした人たちについて発信をつづけているという。


この本の著者であるジャーナリストのパブロは当初、ロレーナの話を信用してもいいものかどうか、判断がつきかねていた。
ロレーナの説明は不明瞭な点が多かった。
なによりも、彼女が潔白ならなぜ、子どもたちは自分の母親を告発したのかという点がひっかかった。

それでも、調査を進めていくうちに……。




本書は、イタリアの優れたジャーナリズムに与えられる「エステンセ賞」を受賞したノンフィクションだ。

とても悲惨な事件を扱ったノンフィクションなのだから、面白かったという言葉はそぐわないだろう。
それでも手に汗握り一気読みせずにはいられなかったことは事実だ。

1990年代末に発覚した、北イタリアのバッサ・モデネーゼで、いくつもの家庭を巻きこんだ性的虐待事案。
幼い児童に手をかけたのは、その両親や、親戚や、きょうだいたちだった。
地元新聞は加害者たちを「バッサ・モデネーゼの悪魔たち」と呼び、このおぞましい事件の推移を逐一伝えた。
虐待が発覚する原因になったのは、ひとりの子どもの証言だった。
貧困家庭に生まれ、ソーシャルワーカーによって親元から一時保護されたダリオという少年の口から語られた言葉は、大人たちを戦慄させた。
性的虐待、殺人、墓地での悪魔的儀式……。
この証言をきっかけに、いくつもの家庭の親たちが、小児性愛の加害者として告発されていく。
結果、多くの大人たちが検挙され、16人の子どもたちが保護されて、養親の元で育てられることになったというのだ。

複数の被告人に無罪判決がでているなど、冒頭からこの事件には疑問符がつけられているのだと知らされていても、生々しく語られる事件の推移を読み進めていると、誰も彼もが怪しげで、いったい真相はどこにあるのかと考えずにはいられない。

「あの人があやしい」などと、まるでミステリを読んでいるかのような気分になっていくのは、真相を直視するのがしんどいからだけでなく、私もまた扇動報道にのせられるその他大勢の一人だからだろう。

このあまりにも不幸な事件の責任を、経験の浅い若きカウンセラー一人に負わせることはできないだろうとは思う。

子どもを護ろういう気概と、自分が大きな役割を果たせるという気持ちが、未熟なカウンセリング技術を暴走させた面はあるのかもしれない。
同様に過剰ともいえるダリオの養母の対応もやはり、自分の果たす役割に酔いしれている部分がありそうだ。
不可解なのは鑑定をした医師だ。
この医師もまた、何らかのトラウマを抱えていたのだろうか?

だがしかし、この「専門家」たちの、その後何度も修正する機会があったのにもかかわらず、今もその過ちを認めようとしないばかりか、既に大人になったかつての「被害者」たちをなおコントロールしようという姿勢は、やはり非難せざるを得ないし、そこには様々な思惑や利権が絡んでいるのではないかと推測も、根拠のないこととはいえないだろう。

そのあたりのことは、現在も続いているというこの「専門家」たちを告発した裁判の中である程度明らかになっていくのかもしれない。


そういった舞台裏があるにしろ、子どもからの聴取が、大人に対するそれと比べても非常に難しいこと自体は、想像に難くない。

性犯罪において誘導尋問などが原因でえん罪が多発した欧米を中心に“司法面接(Forensic interviewing)”が始まったのはたしか1980年代だったはずだが、当時のイタリアではそうした経験値がまだ低かったのかもしれない。

何度も同じ質問を繰り返されるうち(期待される答えを言わない限り、自由になれない)(事実と違っていてても、ここは認めておいた方が良いのかもしれない)などと思い、記憶とは異なることを言ってしまうことは、大人にだってあることが、いくつものえん罪事件で明らかになっている。
ましてや相手は子どもだ。

また、警察や検察、児童相談所などの関係機関が、子どもから別々に何度も被害状況を聞き取るという行為は、被害を受けた子どもにとっては、繰り返し辛い体験を聞かれる被害の“再体験”であり、身体的にも心理的にも大きな負担がかかりもする。

大きな負担が掛かるのは、被害を受けていない場合も同様で、繰り返し同じ事を聞かれるうちに、今はショックでよく思い出せないが、実際にそういうことがあったのだという偽りの記憶を持ち始めてしまうこともある。

そういったことをふせぐための“司法面接(Forensic interviewing)”は、現在、日本の現場でも取り入れられているが、課題もまだまだ多いとも聞く。

“だから子どもの証言は当てにならない”などという意見も、どこからか出てきそうではあるがそうではなくて、様々なリスクを回避しながら、子どもの状況を把握していく方法を、大人たちがみつけていく必要性を改めて感じもする。

そんなことをあれこれ考えてみたところで、壊されてしまった家族関係も、失われてしまった時間も二度と元には戻らない。

それでも、第二、第三の、ロレーナとその子どもたちを生み出さないために、そしてもちろん、本当に保護を必要としている子どもたちに手を差し伸べるためにも、子どもたちの訴えを正しく受け止めることができるようにしていくことが、大人たちの責任であることは確かだ。

 

『京都に咲く一輪の薔薇』

 

今日マチ子さんの表紙に惹かれて新刊情報に目を留めると、翻訳は永田千奈さんだという。
ということは原書はフランス語?とよくよく見れば、世界的なミリオンセラー『優雅なハリネズミ』(L'elegance du herisson)の著者で、モロッコ生まれで日本びいきのフランス人作家ミュリエル・バルベリ氏の作品だというではないか!
しかもこれ京都を舞台にした物語なのだという。

というわけで読んでみた。

フランスで生まれ育った40歳のローズは、日本人の父親とは一度も会ったことがないばかりか、電話や手紙で連絡を取り合ったことすらなかった。

そんな彼女が京都にやってきたのは、亡くなった父が残した遺産の相続手続きのためだった。

名の知られた美術商だったという父親は、自分の死後、フランスから京都に娘を呼び寄せ、具体的な相続手続きに入る前に、自分が好きだったあの場所この場所に案内させるようにと、綿密な計画をたてて、アシスタントのポールに託していたのだった。

それが何のためかも知らされず、初めて訪れた京都で寺めぐりをすることになったローズの目と心に映った京都はというと……。


“天涯孤独のヒロインの愛と再生の物語”

古都に癒され、自分を見つめ直し、愛に目覚めて、人生の意味を見出す。

そうあらすじだけを紹介してしまうと珍しさも奇抜さもないように思えるが、物語と共にフランス人の目に映る京都が堪能できるという点がとても興味深い。

銀閣寺、詩仙堂南禅寺……。

この本をガイドブック代わりに携えて、久々に京都に行ってみたくなった。

『麦畑のみはりばん』

 

翻訳がやまねこ翻訳クラブのよしいかずみさんだというのでチェックしていた絵本です。

実際に手に取ってみると、表紙の手触りが、
なんだかかかし肌ざわりを思わせるようで、
ページをめくる前から、すっかりかかしファンに。


あたりまえといえば、あたりまえのことですが
かかしは、麦畑のみはりばんで、畑を守るのが仕事。

畑にはだれもいれません。
ぜったいに。

キツネやシカ、ネズミもカラスもおことわり。

雨の日も雪の日もカンカン照りの日も、
くる日もくる日も、たった一人で、畑をみはる。
それだけがかかしのしごとなんです。

ところが、ある日、
かかしの足元にカラスのひなが落ちてきました。
かかしはおもわず、
せなかのさおをぽきりとおってかがみこみ
ひなをすくいあげたのでした。

いうまでもなく、
カラスは畑の天敵です。
それでも、かかしは……。


この絵本のみどころはなんといっても、
美しい麦畑の四季と
その畑にポツンと立っているかかしの絵。

まっすぐに立つかかし
せなかがおれてうつむきかげんのかかし、
うしろすがたのかかし

かかしの気持ちがみごとに描き出された絵の数々。

カナダの兄弟画家テリー・ファン&エリック・ファン。

すっかりファンになりました。
しっかりおぼえておくことにします。