かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『ふもれすく』

 

そうだ、僕はこの雑誌の編輯者から伊藤野枝さんの「おもいで」という題を与えられていたのだった。伊藤野枝ともN子とも野枝君ともいわないで僕は野枝さんという。なぜなら、僕の親愛なるまこと君が彼女――即ちまこと君の母である伊藤野枝君を常にそう呼んでいるからなのだ。



ダダイスト辻潤が、女学校教師時代の教え子であり、かつての妻で、息子二人の母でもある伊藤野枝の訃報をうけて執筆したこの文章。

ダダと訊いて、さぞかし読みにくいことだろう思っていたのに、これが意外なほど読みやすく、とても切ない追悼文でもある。

僕が野枝さんのことについてなにか書くのはこれが恐らく初めてだ。これまでも度々方々から彼女についてなにか書けという注文を受けたが、一度も書かなかった。と、彼は言う。

別にもったいぶっていたわけではない、ただ興味が持てなかったからだと。

 野枝さんは僕と約六年たらず生活して二人の子を生んだ。だから新聞では僕のことを「野枝の先夫」だとか「亭主」だとか書くが、如何にもそれに相違なかろう。だが、僕のレエゾン・デエトルが野枝さんの先夫でのみあるような、またあたかも僕がこの人生に生まれてきたことは伊藤野枝なる女によって有名になり、その女からふられることを天職としてひきさがるようなことをいわれると、僕だとて時に癪にさわることがある。

と率直だ。

けれども今度ばかりは……と筆をとる。

もしも野枝さんが、子どもの頃からもっと恵まれた環境で教育を受け、すなおに円満に、いじめられずに育ってきたら彼女はもっともっとその才能を伸ばすことが出来たかもしれないと彼は言う。

不幸にして変則な生活を送り、はなはだ変則に有名になって、浅薄なヴァニティの犠牲になり、煽てあげられて、向こう見ずになった。強情で、ナキ虫で、クヤシがりで、ヤキモチ屋で、ダラシがなく、経済観念が欠乏して、野性的であった…そんな野枝さん。

しかし僕は野枝さんが好きだった。野枝さんの生んだまこと君はさらに野枝さんよりも好きである。野枝さんにどんな欠点があろうと、彼女の本質を僕は愛していた。

伊藤野枝を知る上でも、辻潤を知る上でも、一読、二読の価値のある一文だ。