かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『乞食の名誉』

大杉栄の「死灰の中から」と伊藤野枝の「転機」「惑ひ」「乞食の名誉」を収録した『乞食の名誉』は1920年に刊行され、1923年9月、二人が大杉の幼い甥と共に憲兵によって虐殺された十数日後に再版、その年の12月までに9版も重ねたのだという。
本書はその復刻版で、巻末には長谷川啓氏の解説が収録されている。

1916年、大杉の以前から交際相手だった神近市子による殺傷事件にまで発展したいわゆる日蔭茶屋事件で、世間を騒がせ激しい非難を浴びた大杉栄伊藤野枝

本書にはそれぞれの立場から互いの出会いとその意義を語った作品が併録されている。

大杉の「死灰の中から」には、彼が野枝を知り、惹かれていった経緯が描かれている。
足尾鉱毒事件の谷中村問題に対する野枝の素朴で真摯な憤りに、ともすれば机上の論理に陥りがちだった自らを顧みて、野枝に接することで原点回帰の自己回復がはかれる気がする、そんな活動家の独白はそれなりに読み応えがあるが、それでもやっぱりこの男の身勝手すぎる恋愛観が読み手には受け入れがたい。

対する野枝の「転機」はこれ、谷中村問題がきっかけとなり、思想的転換期を迎えるとともに、そうした“私”の興味関心や憤りを全く取り合わないどころか馬鹿にさえする夫Tとの決別に向けても一歩踏み出すことになる、まさに「転機」の物語だ。

続く「惑ひ」は、働かない夫、姑との確執、勉強する時間が取れないもどかしさ、主人公逸子のあれこれはまさに野枝そのものだったのだろうと思わせる私小説だ。
かつて職を失ってまで自分を助けてくれた夫の、それは変貌なのか、それとも…。
こんなはずではなかったと、逡巡する逸子はしかし、心を奮い立たせて、自分らしく生きる道を模索し始める。

トリを務めるのは表題作「乞食の名誉」。
「惑ひ」と同じく、辻潤をモデルとした夫との生活を扱いながらも、主人公のとし子がエマ・ゴールドマンの著作と出会い、自分がめざすべき理想、進むべき道を見つけだす物語は、やはり著者の代表作と呼ぶにふさわしい1作だ。

そうではあるが、この三作、少しずつ前へと進んではいるものの、主人公たちは自分の進む道を模索して、ようやく一歩踏み出し始められるかどうかというところ。
逸子の、とし子の、そして野枝の、その後の道程を読むことが出来ないことが、とても残念な気がしてしまうのだった。

 

 

乞食の名誉【復刻版】

乞食の名誉【復刻版】

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