かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『私信 ——野上彌生様へ』

 

本当に暫く手紙を書きませんでした。この間の御親切なお手紙にも私はまだ御返事を上げないでゐました。御病気はいかゞです。私は矢張り落ち付かない日を送つてゐます。

こんな書き出しで始まる文章は、野上彌生子からもらった手紙の返事、という形をとってはいるが、1915年(大正4年)に『青鞜』に掲載されていることからも、公開を前提に書かれているものであることがわかる。

垣根越しの近所づきあいをするほどかねて親しく交わっていた野枝と彌生子。
野枝が辻潤と暮らしていた家を出たために、二人の間に出来た距離は、物理的なものだけではなかったらしいことが文面からうかがえる。

野枝はこの文章の中で、世間で問いただされている浮名の噂を否定したあと、同じ号に掲載されたらしい原田皐月の堕胎肯定論への反論を展開する。
これが本題だ。

なぜ、彌生子宛の手紙という形式をとったかといえば、彌生子とは「子供のことについては二人でずいぶんいろいろおはなしをしました」からということなのだろう。

二人は年こそ離れているが、野枝の第一子と彌生子の第二子はちょうど同じ頃に生まれ、ご近所のママ友という間柄だったのだ。

野枝自身は避妊はありでも堕胎はだめという主張のようで、皐月の自分の腕一本切つたのと同じだという言葉に、腕は人間の体についているもので、独立した生命をもたないではないかと反論する。
それを切りはなしたといって法律の制裁をうけるようなことはすこしもないし、その必要もない。
困ることがわかっているのに自分の腕を切り離すような馬鹿なまねをする人もいないし、いたとしても自分でしでかしたことにすぎない。
これが他人の腕を一本切り落としたらどうか。直ぐ刑事問題になる。
堕胎もそれと同じで、たとえお腹を借りていても、別に生命をもっているのだから、未来をもった一人の人の生命をとるのと少しも違わないではないかと反論する。

皐月さんはお腹の中にあるうちは自分の体の一部だと思つてゐらつしやるらしいんですけれど私は自分の身内にあるうちにでも子供はちやんと自分の『いのち』を把持して、かすかながらも不完全ながらも自分の生活をもつてゐると思ひます。其処に皐月さんの考へと私の考への相異があるのですわね。というのだ。

野上彌生子という、同じ年頃の子を持つ親の心情に訴える形で書かれたこの文章は、7人もの子を生んだ野枝ならではの「思想」の一端がうかがえる気がして興味深い。

平塚らいてうから「青鞜」を引き継ぐに当たって、野枝はその紙上で青鞜は今後無規則、無方針、無主張無主義です。と宣言した。
そしてその言葉どおり“貞操”や“堕胎”あるいは公娼廃止運動をめぐる問題など、様々な意見を紙面に取り上げることによって、問題そのものとそれをめぐる論争を世間一般に可視化した。
青鞜」は野枝に引き継がれて後、それまでとは違った雑誌に生まれ変わったといってもいいのかもしれない。
そしてその功績はもっと高く評価されてもいいのではないかと思われもした。