かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『見ること』

 

ポルトガル語圏初のノーベル賞受賞作家ジョゼ・サラマーゴ(1922年~2010年)があの『白の闇』の続編を書いていたと知ったのは、ル=グウィン『私と言葉たち』を読んだ時だった。サラマーゴを敬愛するル=グウィンが感銘を受けたというその作品を是非とも読んでみたいと思っていたところの翻訳刊行で、これは積まずに読まなければと早速手を伸ばしたものの、読了まで随分と長い時間を費やすことになった。その一因が、会話を「 」でくくらず改行もほとんどないいつもながらのサラマーゴ節にあることは想定内だったが、これでもかと文字がびっしり詰め込まれたページを、全体の半分ほどめくってようやく、この物語が『白の闇』の続編であるという“看板”に偽りがなかったことに納得するという構成に翻弄されたこともまた事実だった。
原書で読む読者にすれば、『白の闇』Ensaio sobre a Cegueira (1995)、『見ること』Ensaio sobre a Lucidez (2004)と、タイトルを見れば内容を確認するまでもなくその関連性は明かだったのかもしれない。もっともこの続編への期待値ともいうべき先入観がかえってとりわけ前半部分における物語への没頭を妨げてしまった気がしないでもなかった。

 物語はある首都に設けられたある投票所から始まる。あいにくの悪天候のせいか投票に来る人はほとんどなく、選挙管理スタッフをはじめ関係者は焦りの色が隠せない。ところが午後4時頃になると今度は人々がどっと押し寄せた。投票率の回復にホッとしたのはつかの間で、蓋を開けてみると7割以上が白票だった。どうやらここの選挙制度は白票を無効票としない比例代表制らしく、再選挙が行われるも今度は白票が8割を越えてしまう。これは議会制民主主義に混乱をもたらすべく組織的に計画された投票行動に違いないと政府首脳は考えるが、一連の動きを主導するテロ組織は特定できず、依然としてその要求もわからないままだった。事態を重く見た政府は非常事態宣言を発し、警察や軍隊もひきつれて政府は市外に脱出し首都を封鎖、さらには首謀者を煽り陥れるために、地下鉄で大規模テロを企てる。一方市民はというと、暴徒化することもなく、静かに平和的なデモを行い、テロの犠牲者たちを共同で葬るのだった。そうした状況の下、手詰まりとなって焦る政府関係者の元に届いた1通の手紙は、4年前、人々が突如盲目となった「白の闇」事件の際に、たった一人、視力を失わなかった女性がいたことを“告発”するものだった。

 読んでいるとどうしても、自分が漠然と抱いている選挙制度や議会制民主主義や政治家に対する不安や不満について、あれこれと考えを巡らさずにはいられないが、ではどうしたら、どのような仕組みならという問いに対する答えを作者は提示しないし、読み手自身も見つけることが出来ない。

 そういえば昔読んだ『いまファンタジーにできること』という本の中でル=グウィンが、その物語から読者が何を得るかは部分的には著者次第、なぜなら物語は著者が情熱を込めて書いた著者にとって重要な意味を持つものだから、同時にそれは読者であるあなたたち次第でもある、なぜなら読書もまた情熱を込めて行う行為だからだ、と語っていたことを思い出す。

 きっと私はこの先、選挙があるたびにこの本のことを思い出すだろう。そしてまた折に触れ、選挙とか政治家とか民主主義とかいったものについて考えるとき、サラマーゴのことを思い出しもするだろう。

 おそらく、見ることと見えることは違うのだ。
ページをめくりながら、目にしたものをどう見るのか、提示された物語をどう読むのかと、問いかけられている気がした。