かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『百鬼園事件帖』

 

市ヶ谷の私立大学に通うその青年は、神楽坂にある喫茶店「千鳥」に夕食をとりにきた。
学生のたまり場になっているその店は、まずいコーヒーと学生たちの腹を満たす安いメニューで知られたカフェーだった。
週に一度はこの店を利用している常連なのに、ここの女給たちは彼のことを覚えていない。
とはいえ青年にとって、それは腹立たしいことではなかった。
なぜならちっとも珍しいことでは無かったから。
青年は自分が極端に印象の薄い人間だということを自覚していたのだ。

昔から、級友たちから注目されたことがなかった。
その場にいれば親しく会話もするのに「そういえば君、名前は?」と尋ねられることはしょっちゅうだった。

「甘木君」
「よかったら、こちらのテーブルに来なさい。一緒に食べよう」
だからその日、偶然店に居合わせた厳しいことで有名なドイツ語部の内田榮造教授が、自分の名前を知っていたことにひどく驚く。

「なにがし、と読めることかね」
おまけに先生は、青年が自分の名前に抱いているコンプレックスを見事に言い当てたのだった。

この内田教授、内田百間(※作中でも使われている昭和初期当時の表記)の名前で、『冥途』という本を出版したこともあるという変わり者。

常にいないようでそこにいる、ということは、常人にはなかなか難しい。見方を変えれば、それも特殊な才能だよ
そう言った先生との出会いは、青年の「日常」を少しずつ変えていく。

漱石の形見の「背広」や、百間おなじみの「猫」、芥川との思い出がつまった「山高帽子」などをモチーフにした怪奇色のある連作短篇4作品。

芥川にこそ高く評価されはしたものの初著作『冥途』はあまり売れないまま絶版になり、関東大震災による親しい人の死や、友人芥川の自死などが暗い影を落とす百間不遇の時代を舞台にしつつも、のちの成功を予感させる物語は、怪奇を扱いながらもさわやかな読後感。

元ネタをさがして百間だ芥川だと思わず手を伸ばしてしまうのもお約束だ。