雑誌の連載や寄稿、文庫の解説、あの人この人への追悼文など、さまざまな媒体の注文に応じて生み出された52篇。
そもそも茶碗に珈琲をつぐなんてふつうの感覚ではありません、これはよほど古い時代の話だと思います、と彼女は言う。(「私はあたまをかかえた」)
学生たちとのやりとりをモチーフにしたエッセイには、思わずクスッと笑ってしまったり、本気で頭を抱えたくなってしまったりする。
魚が欲しいときに最初から素手でつかもうとせず、時間とお金をかけて道具をつくるほうが最終的にたくさんとれるという、経済学の譬えとおなじですよ。迂回生産てやつですね。
語学や文学は、迂回に支えられている。最終的には利益に結びつく話でも、利益の出る手前までの試行錯誤に重きを置いて、過程を自分のものにすればいいと考えることが許される。実学を標榜し、効率を求め、ファジーですら数値で制御しようとする職場で耳にした迂回の一語に、私は深く慰められた。(「遠回りの思想」)
なかなか厳しい大学事情もさることながら、文学を学ぶことの意義について考えさせられたりもする。時間に濾過された過去の自分は、ひとりの他者で
あり、最も身近な他者が言葉にした感覚を、現在の自分はもう生の形で受け取ることができない
(「叩くこと」)ということについて考えながら、妙に“腑に落ちた”気がしたりする。
幸田文を読もう、小沼丹を読もう。
そしてあの本もこの本も再読してみようなどと思ったりもする。
正直に言えば、小説もエッセイもすごく好みなのに、堀江作品を紹介するのはすごく難しい。
けれどもやはり、本を読み、読んで書き、また読んで言葉と対話した想いを人に伝えよう。
(「言葉の池をつなぐ」)という呼びかけに、応えずにはいられない。