かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『十六の言葉』

 

誰しも人生で最初に覚える言葉がある。その言葉が見事にわたしを不意打ちにした。ちょうど、ここで取りあげる十六の言葉と同じように。その言葉から身を守ることは、ただの一度も成功したことがない。「ほかにも言語はあるんだぞ。おまえの母語だ。おまえがいま口にしているのがお前の言語だと思ったらまちがいだ」十六の言葉は繰り返しそういうメッセージを送りつけてきた。私は何度も何度もその十六の言葉を突きつけられてきた。


こんなプロローグから始まる物語は、イランで生まれドイツで育ったという作家のデビュー作だという。

主人公兼語り手のモウナーはイラン生まれドイツ育ちの女性で、ジャーナリストを志していたが、現在は著名人の自伝を書くゴーストライターゴーストライターをして生計を立てている。
祖母の葬儀のために、母親と共にイランを訪れた彼女は、祖母にまつわる思い出をたぐり寄せながら、自分自身のこれまでの人生をも振り返る。

マーマン・ボゾルグ(おばあちゃん)、ハーステガール(求婚者)

「わたしにもハーステガールはいるわ。求婚されているけど、結婚したくないの」
 わたしは祖母を安心させるためにそういった。西半球の大都会で三十半ばの女がシングルでいることがどういうものなのか、どうやったら説明できるだろう。


イランに滞在している間だけ、付き合う既婚の男性がいる。
ドイツでイラン人と付き合ったこともある。
自分の恋愛事情をおばあちゃんに話したところで、きっと理解してもらえないだろう、わたし自身だって理解できないのだから、と彼女は溜息をつく。

一九七四年に生まれたとき、わたしはすでに父が身を投じた共産主義革命の渦中にあった。わたしのハーステガール(求婚者)は革命によって奪われた。革命はすべての人から何かを奪った。とくに信念を。それがどういう信念であれ。


父のこと、母のこと、それぞれの再婚相手のこと、恋人のこと、友だちのこと……。

帯には“ドイツ語圏の移民文学の旗手”とあったが、“移民文学”と聞いて当初私が想像したような“祖国”を巡る葛藤ではなく、自分の中に共存するドイツとイランに向き合う、いわゆる第二世代の葛藤が描かれているよう。

家族、恋愛、友人といった人間関係や、それと切り離せない文化的な葛藤を抱えつつ、二つの言語の間を行き来しながら生きる自分自身を見つめる物語は、どこか艶やかでそれでいてなまめかしすぎず、異文化への戸惑いを感じさせながらも懐かしさや切なさがつまったしみじみとした読み心地で、一気に読むのがもったいなくて、ゆっくりとページをめくる。

そうして読者である私は気づくのだ。
イラン文学、ドイツ文学、アラブ系亡命作家、移民の物語……等々、この物語を読む前に私自身が抱えていた先入観に。
それは主人公が、ドイツでもイランでも、日々向けられている周囲からの先入観と、いったいどこが違うというのか。
たとえどんなルーツがあろうとも、私が私でしかあり得ないように、他者もまたその人でしかあり得ないという当たり前のことを確認するために、作者は書き、読者は読むのかもしれない、などとも思う。



以下は余談だ。

この本は、光文社古典新訳文庫の創刊編集長駒井稔氏が立ち上げたひとり出版社が初めて出した本として、注目を浴びている本でもある。
そうした触れ込みには少々ためらう気持ちもあったが、“訳者読み”で手にした本だった。
だからやはりというべきか、作品自体は素晴らしかったが、冒頭の「この小説を読む前に」という4頁ほどの無記名の文章には違和感しかなかった。
イランの歴史になじみがなくても、作品からの派生で関心を持つ人もいるだろうし、どうしてもというならば、巻末に解説をつけるという手もあるのではなかろうか。
これから「ここではないどこかへ」行こうとしている読者にとっては、余計なお世話でしかない、というのは言い過ぎだろうか。
またこれが誰が書いた文章かが最初に明記されていれば、読み飛ばすこともできたのだけれど、無記名なだけに読んでしまったがために、作者が意図しないミスリードをされた気がした。
今後の出版編集ではこの点はぜひ改善してほしいところ。

もう一つ、これも余談だが、作中に“自分をラクダと交換する”という言葉がでてくる。
注釈によれば、ドイツ語で“気をつけろ”という言い回しなんだとか。
どんな故事から派生した言い回しなのか気になってネットで検索してみたが、わからなかった。
もしもどこかで、たとえば他の本を読んでいるときにでも、この言葉とばったり再会したら、楽しいだろうななどと思って、思わずノートに書き留めた。