かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『傍らにいた人』

 

2017年~18年に日経新聞に連載された“読む”ことをめぐる52篇のエッセイをまとめたもの。
こういうエッセイ集にありがちな、“紹介されているあの作品この作品をなんとしても読まなくては!”という焦燥感に駆られることなく、美しい文章と共に、物語を読むことの楽しみを著者と共有できる気がするお気に入りの1冊。

時々、思い出したように手に取っては、頁をめくってみると、こんな文章にいきあたる。

 その場にいたときには目の前をあっさり素どおりして気にもとめていなかった人の姿が、なにかの拍子にふとよみがえってくることがある。たいていはだれもが知っている人物の傍らの、淡い接触をしただけの存在で、顔の輪郭がはっきりしていないことさえあるのだが、思い出したらそのまま忘れて終わりというわけではなく、何年か経つと、べつの角度で刺激された記憶の片隅から、また不意にあらわれたりする。(p10)



 規模の大小を問わず、ひとつの文芸作品を読んで記憶の奥底に刻まれるのは、物語の筋とは一見かかわりのなさそうな細部である。なにか枠組みをつくって論を進めるには、あまり役立っているように見えないことが多いけれど、それが時間の経過とともに消え失せていくのではなく、作品全体をたぐりよせるきっかけになっているなら、書物との向き合い方としてまちがってはいない。(p32)



 連想といういうものはつねに足し算であって、引き返す術がない。(p88)



 書物とのつきあいは、人とのつきあいに似ている。別れても再会し、手放しては買戻し、何度失っても、まるで運命のようにどこかで必ずまためぐり逢う。(p138)



 小説の楽しみのひとつは、全体の流れや構造とは関係のない細部につまずくことにある。その箇所だけが頭にこびりついてまわりの濃度が薄まったり、残りを忘れてしまったり、つまずきの意外性と喜びはさまざまなあらわれ方をする。一行が独立した力をもって浮きあがってくる現場に出くわすのも解釈にとらわれない読書体験のうちであって、その印象が強烈だからこそ、出会いの原風景にいつでも戻ることができる。(p148)



井伏鱒二芥川龍之介小島信夫川端康成梶井基次郎等々、紹介されている作家や作品の印象もさることながら、著者の紡ぐ言葉そのものが、私の中でひとつの“原風景”になっている。