かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『宣陵散策』

 

柔軟さに欠け融通が利かない僕には向かないときっぱり断るつもりだったのに、先輩の頼みを断り切れずに引き受けた時給1万ウォン、土曜日の朝の9時から夕方の6時まで、1日限りのアルバイト。

待ち合わせの宣陵駅近くのカフェに現れたのは中年の女性に腕を取られた僕より20㎝ほど背が高い、痩せ型の男。
あどけない表情は、身体だけ急成長した子供のようでもあったけれど、喉仏や目尻のしわなどよく見れば同年代のようでもあって、19歳だと聞いていたけれど、一見しただけでは年齢の見当はつかなかった。
彼の名はドゥウン。
自傷行為防止のためにヘッドギアをかぶり、とても重たい紫色のリュックを背負ったドゥウンは、ところ構わずつばを吐く癖があり、落ち着きなく身体を動かし、歩きながら見かけた木々の名前を正確につぶやいたかとおもうと、ときどき大きな声をあげることも。

彼の面倒を一日だけみてやってくれ。
なるべく人のいないところへ行き、歩き回ると良い。
体力を使えば、夜はぐっすり眠ってくれるからその分家族は楽になる。
ずっと話しかけていれば、仲良くなれる。
話しかけるといっても、独り言をいっているみたいにはなると思うが。

先輩のアドバイスを思い出しながら、僕はドゥウンとともに宣陵を散策するが、意思の疎通はままならないし、人の目は気になるし、時計の針はなかなか進まず……。

“宣陵”は、ユネスコ世界文化遺産にも登録されている朝鮮王朝第9代王成宗王(1457~1494年)と継妃(王の後妻)である貞顕王后ユン氏の墓。
史跡を取り囲んだ大きな公園は、地元市民にとっては憩いの場所かも知れないが、僕はこれまで訪れたことがなく、宣陵駅の近くに宣陵があるということに、ちょっと感動さえしてしまう。

そんな“宣陵”にドゥウンを重ね合わせるわけではないが、僕にとってはどちらも、たとえ視界に入っても気に留めなければ見過ごすことができ、知らなければ知らないでも済む存在だったのかもしれない、などと読者は思ってしまう。

あれこれとトラブルがあって、ようやく長い一日が終わる。
僕とドゥウンは心を通わせるわけでなし、もう2度と会うことすらないかもしれないが、それでもわからないなりに、読者も僕と共にあれこれと考える。
そんな余韻の残る静かな作品。

なにがどうとうまく言い表せないのがもどかしいし、知ったところでどうすることもできないあれこれもまたもどかしいが、それでもこの作品、そういうもどかしさや、きれいごとで終わらせないことをも含めてとても良かった。

『ついでにジェントルメン』

 

以前読んだ『らんたん』がとても面白かったから、もう一作、著者の作品に挑戦してみようと手にした本。

いろいろな作品がある中で、この本を選んだ動機はなんといっても、作中に菊池寛が出てくると聞いたからだ。

といっても、収録されている7つの短篇のうち、菊池寛が登場するのは2篇のみ。
そのうちの1篇、巻頭作「Come Come Kan‼」の主人公の原嶋覚子は25歳。
3年前、短編小説で文藝春秋の文芸誌「オール読物」で新人賞を取った小説家だ。
賞はとったはいいがその後は芽が出ず、次作を書き直すこと11回。
打合せのたびに担当編集者に嫌みを言われ、落ち込んでいる。
今日もまた、文藝春秋社のラウンジでの打合せで打ちのめされて、あーあ。別の新人賞に応募して、一からデビューし直そうかなあ……とひとりつぶやく彼女に今から一からやり直す?そんなの意味ないよと、突然話しかけてきたのは、誰あろう、文藝春秋社の創設者菊池寛…の銅像だった!?

やーこれは文壇の裏事情(?)も含めて面白い!

この調子で連作短篇になるのかとおもいきや、2作目の「渚ホテルで会いましょう」は、かつて自身が書いたベストセラー小説の舞台となったホテルを、久々に訪れた初老の作家が主人公で…。

これはこれ、あちこちにちりばめられた皮肉がじわじわと効いてくる、興味深い作品だった。

「勇者タケルと魔法の国のプリンセス」は女性専用列車を目の敵にする男の話だし、「エルゴと不倫鮨」は、乳飲み子を抱いておしゃれな寿司バーに入ってくる女性がめちゅくちゃかっこいい。

夫の浮気が原因で幼子を抱えて実家に帰った主人公に、なぜかついてきてしまったのは舅だった!?「立っている者は舅でも使え」には思わず苦笑い。

名作少女小説のセオリーは現代社会にも通用するのか!?
「あしみじおじさん」を読めば、もう一度あの『あしながおじさん』を読み返したくなること必至!?

トリを務める「アパート一階はカフェー」には、生身の菊池寛が登場するが、彼はあくまで脇役で、主役はあくまで女性たち。

なんといっても文壇よりの作品が面白いので、そういう物ばかり集めた連作短篇でも良かったのでは?と思いはするが、ここはそれ、最初にもどって、菊池寛(の銅像)の忠告に耳を貸すべき?

よっぽど上手くないと埋もれちゃうよ。今、めちゃくちゃ多いじゃん。連作短篇
さすが菊池寛(の銅像)、だてにサロンでずっと聞き耳を立てているわけじゃない。
聞く耳を持つ作家にはいろいろ為になるアドバイスをしてくれるらしい!?

 

 

 

『本おじさんのまちかど図書館』

 

本の貸しだし無料
 一さつ返して
 一さつ借りよう
 読もう 読もう もっと読もう!



想像してみて!
街角にこんな図書館があったならって!

あつい板の上に、本が積まれていて、
その中から、本おじさんが
ぴったりの日に、ぴったりの人に、ぴったりの本を選んでくれる。

毎日学校帰りに、まちかど図書館にかようヤズミンは、
去年、八歳になったときから、
本おじさんが図書館を開いている日は必ず、一さつ本を借りて読んでいて、
これまで読んだ本は四〇〇さつを越えた。

本おじさんがすすめてくれる本は,毎回とてもおもしろいのだ。
けれどもその日のおすすめ本には、どうにも気が乗らなかった。

インドの昔話だというのだけれど、
ちょっとうすすぎるんじゃない?

それでも、借りて帰ってみたヤズミンは
読み終えた後もどうにも気になってしかたがなかった。

どうしてこの本が、今の自分に「ぴったり」なのか!?


やがて、まちかど図書館が存亡の危機に瀕していることを知り、
ヤズミンは友達や両親や、近所の大人たちをまきこんで、
近々行われる市長選挙の候補者たちに
図書館の存続を訴える活動を始めるのだった。


借りた本を家に帰る途中で読み始め、
道のでこぼこにつまずきそうになるほど
読書に夢中のヤズミンをほほえましくおもいながら読み進めると、
これが“やっぱり本が好き!”というだけに留まらず、
要求実現のための活動や、不正問題や、選挙活動など、
様々な広がりをみせていくことにおどろく。

薄い本だが中身はかなり濃い。

もちろんそうだ。
9歳の女の子にだって、
市政に望むこと、市長に約束してもらいたいことがあってあたりまえ!

ましてやわたしたち大人にだって!
そうだ!選挙に行かねば!!
そして選挙にいくだけでなく、当選者のその後を
きちんと見張って、言うべきことは言い続けることが必要なんだ!

当たり前のことのようで
なかなかできないあれこれを、きちんと伝えてくれる。

これってまさにあなたに“ぴったり”の一さつなのでは!?

『海を渡り、そしてまた海を渡った』

 

物語は80代の女性が見た夢の話から始まる。
彼女の名前はワンチュンリエン(王春連)。
ここ数年、梅雨が明けて夏が来る時期に同じ夢をみるのだという。
頭が破裂してしまいそうな爆撃音が聞こえ、それにかぶさるように必死に自分を呼ぶ声がする。そこで必ず目が覚めるのだ。
その呼び声が誰のものなのか。
姉なのか、生みの親なのか、あるいは一緒に逃げていた友だちのものなのか、彼女にはわからない。
つきつめて考えてみれば、何と呼ばれていたのかもわからないはずだ。

1945年、中国北部、旧満州の興安嶺の山の中で拾われたチュンリエンは、瀕死の重傷を負っていたせいか、その過酷な経験のせいか、意識が戻った後も長らく言葉を発することが無かったという。

そんなチュンリエンも今は、日本の老人ホームで穏やかな日々を過ごしている。


子どものいなかった養親に大切に育てられたチュンリエンが、再びその過酷な運命と正面から向き合わなければならなくなったのは、二十年後のことだ。
日本人であることを理由に文化大革命で徹底的な弾圧に晒されたチュンリエン。
だが当時のことを回想するのは、昨日まで一緒に遊んでいた友だちたちから突然石を投げられて、「日本鬼子」と蔑まれるようになった彼女の三人の子どもたちのうちの一人、娘のツァンホンメイ(蒼紅梅)だ。
その時以来、学校に通うこともできずに、社会の最底辺で身を粉にして働くことを余儀なくされたホンメイだったが、あるきっかけで希望と向学心を取りもどし、医学を志すことに。
そんな彼女を待ち受けていたものは……。


三人目のヒロインは、チュンリエンの孫で、ホンメイの娘、ヤンリュウ(楊柳)。
小学三年生から日本の学校に通っている彼女は、祖母や親兄弟以外から睦美の名で呼ばれることにもなれていて、日本人と結婚して子育て真っ最中だ。
そんな彼女もやはり、自分のアイデンティティに悩みもする。


“中国残留孤児”の血脈を三代にわたって語り上げる物語。
三人それぞれによる自分の人生と家族について語りが2巡ずつ。
190ページと、決して長い物語ではないが、一文たりともおろそかにできない濃厚さがあるのは、物語自体はフィクションでありながらも、著者が長年に渡る活動の中で知りあった中国残留邦人とそのご家族の実体験に基づいているからなのだろう。


かつて残留孤児訪日調査団に加わって来日し、わずかな手がかりを元に肉親を探してテレビカメラの前で涙を流していた方達たちの映像を思い出す。

あの人達は今どうしているのだろう。

そんなテレビ放送が、毎年のようにあったことすら知らない世代が、増えてきている今だからこそ、多くの人に読んでもらいたい一冊だ。

 

『楽器たちの図書館』

 

青いヴァイオリンが描かれた表紙をめくると、最初に飛び込んでくるのは、カセットテープとCDジャケットのイラスト。

この短編集は僕からみなさんに贈る録音テープです。
テープには全部で八曲の歌が録音されています。
僕にとってはどれも特別な歌ばかりです。
ずっと昔、友だちの誕生日にプレゼントするために
録音したテープや、自分だけの
特別な歌を集めたテープを思い出します。
LPやCDを再生して、カセットデッキ
赤い録音ボタンを押すと、音をリアルタイムで
テープに移動させることができました。そのとき僕は、
音をつかまえたと思いました。いまはよくわかりません。


「みなさんへ」とはじまる著者からのメッセージはこんな風に始まっていて、わずか一ページのその短い一文で既に、読者はかつて自分が体験したカセットテープにまつわるあれこれの思い出の渦に引き込まれそうになる。

後から思えば、もうこの冒頭の挨拶から既に、物語は始まっていたのかもしれない。

「自動ピアノ」「マニュアルジェネレーション」「ビニール狂時代」「楽器たちの図書館」「ガラスの盾」「僕とB」「無方向バス」「拍子っぱずれのD」

ピアノ、オルゴール、エレキギター、合唱等々、なるほどこれは、音楽にまつわる小説を集めた短編集なのだなと考えつつ、しゃれたフレーズとほどよい甘さにほろ酔い気分になりがら読み進めると、中に一つ音楽とも音とも結びつかない作品が紛れていた。

「無方向バス」という名のその物語は、その“寂しさ”がとても心に残る印象的な作品なのだが、この作品がどうしてこの短編集に収録されているのか、訳者あとがきを読むまで全く理解できずにいた。

そうして、最後の最後まで読み切って、なるほどそういうことだったのかとうなずきながら、もう一度あの作品、この作品と読み返してみる。

「楽器たちの図書館」という本書のタイトルは、そのまま収録作品の一つのタイトルでもあるのだが、読み終えて振り返ってみるとまさに、この本そのものが様々な音を集めた“図書館”だったのだと合点する。

「ビニール狂時代」の中で語り手が思い巡らすように、音楽も小説も“新しいものはどこにもなく”常に“誰かの影響を受けた誰か、その影響を受けた誰か、そのまた影響を受けた誰かが、そのたくさんの下絵のうえに自分の絵を描く”そしてまたその絵を下絵に別の作品が生まれていく……そういうものなのだろう。

始まりは一つの音、一つの言葉。
読者もまた、本から言葉を拾い集めて、自分の中に何かを作ろうとしている。

『宝島』

 

かつて世界中の海を荒らし回った伝説的な大物海賊が、隠した財宝のありかを記したという地図。

腕に覚えがある者ならば誰もが欲しがるその地図を手に入れた少年が、海賊たちを出し抜いて、お宝を手に入れるべく大海原へと乗り出していく冒険譚。

あまりにも有名な物語なので、すっかり知っているつもりになっていたけれど、きちんと読むのは初めて、これもまた例によって例のごとく 『やりなおし世界文学』からの派生読書だ。

 


原作は子ども向け雑誌『Young Folks』に1881年から1882年にかけて連載、1983年に加筆修正されて1冊にまとめられて出版されているが、元々は作者のスティーヴンソンが妻の連れ子のロイド少年と遊ぶ中で生み出した物語なのだという。

 大地主のトリローニさんや医者のリヴジー先生、みんなにいわれて、ぼくは宝島のことを最初から最後まで詳しく書き記すことにした。なにも包み隠しは要らないが、まだ一部掘り出していない宝もあるから、島の方位だけは明かさぬようにといわれた。そこでぼくは、いま、一七--年にペンを起こし、話は父がまだ《ベンボウ提督亭》という旅亭をやっていたころのある日、赤銅色の顔に刀傷の走る老いた水夫が投宿したときにさかのぼる。

物語はこんな風に幕を開ける。

死人箱島に流れ着いたは十五人
ヨー、ホッ、ホー、酒はラムがただ一本


奇妙な歌を口ずさみ“キャプテン”を名乗るその男は、浴びるほどラム酒を飲み、不潔でだらしのない乱暴者だったが、いつも何かに怯えているようで、“片足の船乗り”を見かけたらすぐに知らせろと、旅亭の一人息子であるジム少年に言い含めるのだった。

ほどなくジムの父親が病気で亡くなるのと時を同じくして、“キャプテン”も大酒がたたって、海賊たちとの決闘前に死んでしまう。

ジムはたまった宿代を回収しようと探ったキャプテンの遺品の中から、一枚の地図を見つけるのだ。
これが海賊たちが欲しがっている“獲物”だと直感したジムは、父を看てくれていた医者で治安判事でもあるリウジー医師の元にかけつけるのだった。
こうして、地元の名士である地主のトリローニを船主に、リウジーを船医に、宝探しの旅に出ることに。

いやいや、まてまて、地主さんはともかく、元海賊たち相手でもひるむことのない、良識の塊みたいなリウジー先生が、そんなに簡単に仕事をほっぽり出して宝探しにでてもいいのか!?と、大いに首をかしげるが、これがねえ、どうやらいいらしい。
地元の患者たちの為に、代わりの医者もちゃんと用意し、旅先では敵味方の区別なく、怪我人や病人の治療にあたる。公明正大で正真正銘の“紳士”である彼は、私利私欲に走って宝探しをするわけではなさそうだ。

地味にいい役のリウジー医師の存在に注目しつつも、もちろん『宝島』を語るうえで欠かせない男ジョン・シルヴァーに触れないわけにはいかない。

片足をものともしないすぐれた身体能力と、ならず者らしからぬ冷静さ。
群を抜いて回転の速い頭脳の持ち主であるシルヴァーの一番の恐ろしさは、夢にうなされるほど“片足の船乗り”を警戒していたジムでさえもあっさりと丸め込むそのカリスマ性。
昨日の敵は、今日の味方、そして明日はいったいどうなっている?
二転三転する立ち位置ともにシルヴァーからは一時だって目が離せない。

他にもなかなか魅力的な登場人物がいっぱいで、この際だったキャラ立ちが、この作品の最大の魅力とも言えるかも。

海洋冒険物にありがちな植民地主義的な色彩や、人種的偏見が濃くないことにも好感が持てる。

ジム少年の語りで始まるからには、物語の結末はある程度約束されている。
にもかかわらず最初から最後まで、面白くて目が離せない。
長く読み継がれてきたのも納得の“やりなおし”甲斐のある一作だった。

『夏』

 

 アインシュタインならきっとこう言う、とロバートは言った。人類は星を眺めることで最高の知的な道具を手に入れた。でもだからといって、僕らがその知識を使って何かをしたとき、星にその責任を負わせることはできない。
 うわ、とシャーロットは言った。ロバート。その言葉、最高。
 そう?ロバートは言った。
 彼の体から喜びが放射していた。
 でも、僕の言葉じゃない、と彼は言った。アインシュタインの言葉さ。
 でも今そう言ったのはあなた、とシャーロットは言った。あなたはこの瞬間のために言った。今のは、ほら、的を射た発言よ。ノックアウトパンチ。完璧なタイミング。ホールインワン。  (p385)


年上の女性に憧れを抱く、アインシュタインに夢中の少年ロバート。
ネットを介して執拗ないじめに遭う彼は、母グレースと姉サシャの頭痛の種でもある。
サシャはサシャで人類の悲惨な未来を一身に背負っているかのように、気候変動、移民問題、新種のウイルスなど様々な問題に頭を悩ませ、憤っている。

ある日、サシャは母親の形見の石を元の持ち主に返しに行くために旅をしているというアートとその連れのシャーロットに出会う。
ああ、ここに『冬』が、と読者は思う。

 

アートとシャーロットは、ロバートとサシャの母親グレースと意気投合し、アート達のドライブ旅行に同行することに。

アートが訪ねていったのは、100歳を超える老人ダニエル。
そんな彼を見守るのはかつてダニエルの隣人だったエリザベスだ。
あっ!『秋』を見つけた。

ダニエルが夢見ているのは、第二次大戦中、ドイツ系ユダヤ人として収容された敵性外国人の収容所のこと。
生き別れになった妹のこと。

そして最終盤にはもちろん『春』も。

 

アリ・スミス四季四部作最終巻は『夏』。
これまで同様、いくつかの断片がちりばめられて、読者がそれを一つ一つ読み解いていくと、いつの間に一つの長編を読み終えている、というコラージュのような物語だ。

そうして秋冬春夏とすべて読み終え、改めて周りを見回してみると更に、スケールの大きな作品に取り囲まれて、ちょうどそのど真ん中に自分が立っていることに気づく。

これはもう、圧巻と言うしかない。

読み終えたばかりの『夏』を一旦脇におき、再び『秋』を迎えに行く必要がありそうだ。