かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か? ; これからの経済と女性の話』

 

フェミニズムはつねに、経済を語ってきた。ヴァージニア・ウルフは女性に「自分ひとりの部屋」が必要だと説いたが、そのためにはお金がかかる。
 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、女性たちはさまざまな権利を手に入れるために立ち上がった。相続権、財産の所有権、起業する権利、お金を借りる権利、就職する権利、同一労働同一賃金。お金のためではなく愛のために結婚できる経済力。
 フェミニズムは今も、お金をめぐって進行している。


2012年にスウェーデンで刊行されて以降、これまでに20の言語に翻訳され、世界各地で話題を呼んでいるというこの本の、「経済と女性の話をしよう」と題されたプロローグは、こんな風に始まる。

つまりこの本は、フェミニズムの本であると同時に経済の本でもあるというわけだ。

“経済学の父”と呼ばれるアダム・スミスは、我々が食事を手に入れられるのは、肉屋や酒屋やパン屋の善意のおかげではなく、彼らが自分の利益を考えるからであると説いた。

でもちょっと待って!食卓に載ったその肉を調理したのは誰ですか?
肉屋や酒屋やパン屋が商売をしている間、彼らの衣服を洗い、子どもたちの面倒をみて、食事の支度をした人たちのその働きは、あなたの理論のどこに組み込まれることになりますか?

そういう問いかけから、この本は始まっている。

経済学は長い間、大抵の場合“女の仕事”とされてきた“ケア労働”について深く考察することなしに語られてきたというのがその指摘であり、社会の様々な問題を解決する糸口は、そうした経済学のありかたそのものを問い直すことにあるというのである。

読み始めて最初に思ったことは、内容云々の前に、字の大きさ、贅沢に取られた行間や余白、そしてなによりも文章そのものが、非常に読みやすいということ。
正直に言うともう少し、眉間にしわを寄せながら読むような小難しい本を想像していたので、これには驚いた。

だからもしあなたが、“経済の話”と聞いて、難しそうだな…と躊躇っていたり、アダム・スミスの名前にピンとくるものがなかったとしても、心配は無用。
まずは気軽に手に取ってみることをお薦めする。

ちなみに私は「経済学」そのものにも興味がなくはない。
アダム・スミスの『国富論』もカール・マルクスの『賃労働と資本』も、学生時代に読んだきりだが、読んだ時には社会のしくみがなんとなくわかったような気がするものの、なんだか釈然としないものがあって、そのなにかをめぐって、あれこれと学友たちと語り合ったっけ、などと遠い昔を思い出しつつ、ネットにあげられている本書に対する肯定的な驚きの声や、否定的な意見にもざっと目を通してみた。
そうして、私がはじめてフリーダンの『新しい女性の創造』を読んで刺激を受けてから、もう3、40年経つというのに、今ココ!、まだココ!!なのだなあと思いもした。

長い間“経済”を論じる場面において、主に女性が担ってきた家庭内労働は価値のないものとされてきた。
女性の“社会進出”に伴って、それまで“家庭内労働”とされてきたあれこれが、家庭外からもたらされる労働力によって担われるようになってきても、その対価は非常に安く押さえられてきた。
女性が家庭外で働いて得る賃金より安価でなければならない。
そうでなければ女性は外で働く経済的メリットがないことになってしまうから。
でもそうなると、今度は本来負担の大きいはず家庭内労働が“安く見積もられてしまう”ということにもなって……。

こうした問題は、保育、看護、介護等の“ケア労働”に携わる人たちの低賃金問題とも密接にかかわっているわけで、古くて、新しい問題として、今一度根本からとらえなおす必要があるように思われる。


そうこれは女性だけの問題ではない。
社会全体の問題で、だからこそ、社会全体で考えていかなければならないのだと、改めてわかりやすく解説してくれる1冊だった。