かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『ル・クレジオ、文学と書物への愛を語る』

 

Quinze causeries en Chine. Aventure poétique et échanges littéraires (2019)の全訳。
2011年から2017年にかけて作家が、中国で行った15の講演をまとめたものだ。

巻頭には20数ページにわたり、中国の大学で教鞭をとり翻訳家でもある許鈞氏の序文が掲載されているのだが、訪問先でのあれこれやや旅行鞄の中身など、作家の人となりがよくわかるエピソードが満載でとても興味深い。

ちなみにル・クレジオは1993年に南京を訪れた際、自分の作品『調書』を中国語に翻訳した許氏とはじめて対面し、熱心に話し込んだ後、今後中国語への翻訳を許氏に一任することを決めたのだそうで、以降は新しい作品が書き上がるとすぐに送ってくれるようになったという。

さらに「私の作品を翻訳することで、あなたもその作品の創造に加わっているのです。ですからあなたにはそれなりの自由をゆだねます」と述べているとも。

続く本編には15の講演録。
大学での講演が多く、長短はいろいろだが、中身はどれもなかなかの濃さ。

たとえば「作家たちの都」にはこんなくだりがある。

フランスにおいて人権が語られる際には、それは男性市民の権利であり、女性市民の権利ではありません。フランス革命期の女性活動家オランプ・ド・グージュは有名な建白書になかで、国民公会に対してこの点を問いただしましたが、その結果は痛ましいものでした。反革命分子として断罪され、公共の広場(コンコルド広場)で断頭台の露と消えたのです。



 文学とは気晴らしなのでしょうか、人を魅惑するものなのでしょうか、警鐘を鳴らすものなのでしょうか。おそらくはそのすべてを同時に含むものなのです。



あるいは「書物と私たちの世界」では、

 作家の経済状況が必ずしも恵まれたものではないのは事実です。詩人であれ、小説家であれ、筆一本で生活していくのは容易ではありません。

と述べた後、かつてあの文豪、あの作家がいかに困窮していたか、という話も。

カナダの北極圏に暮らす先住民が、自分を理解してもらうために征服者の言語であるフランス語や英語で書かなければならないのは不当なことだといい、クレオール語が、現在メディアを絶対的に支配している五つか六つの言語とおなじぐらい容易に聞き届けられるなどという考えはむなしいものだともいう。
そうではあるけれども、翻訳を通して、世界がそういった声に耳を傾けることが可能だというのは、希望を予感させるとも。

さらには

グラムシが指摘するように、たとえ文化が政治の都合のいいように利用されることが往々にしてあるとしても、世界に向けて扉を開くことは、現代を生きる人間に課せられた冒険です。それができなければ、自らの内に閉じこもったまま、硬直化してしまうでしょう。

と語るのだ。

「文学の普遍性」と銘打った講演におけるプルーストの「失われた時を求めて」の考察も興味深く、同時に考察する中国の作家老舎の作品もぜひ読んでみたいと思わせる。

すっかり、ル・クレジオの“話術”に魅せられた後に読んだ「訳者あとがき」も読み応えはあるが、非常に気になる部分も。

文化の多元性の名のもとに大国の覇権主義を糾弾する作家の文明批判にはある種の偏りがあり、欧米諸国への世界の植民地化を繰り返し断罪する一方で、中国の言論封殺や少数民族の弾圧などには一言も触れていないと指摘しているのだ。
実際、本書刊行後のフランス国内でもそういった批判はかなりあったそうだ。

だがしかし、これは中国国内での講演集のはずだ。
作家はなにかの折に訪れた先で1、2度講演したというのではなく、数ヶ月にわたり滞在し、大学で教鞭を執ったりもしている。

直接的に中国政府を批判するのは作家本人だけでなく、講演を主催する大学関係者や聴衆にとっても危険をともなう無謀な行為なのではなかろうか。

過去をひもとき、世界各地の例をあげ、書物への愛と、文学への信頼、作家や出版者や読者が果たすべき役割について語るとき、あるいは少数言語話者のことを問題にしているとき、それが直接的に言及していないからと言って、そこに中国政府への抗議の意が含まれていないとは、私には思えなかった。

 文化を世界規模で考えることは、私たちすべてに関わる問題です。しかし特にその重要な役割を担っているのは読者であり、ひいては出版にたずさわる人々なのです。


「書物と私たちの世界」にあったくだりを読み返す。
そこになにを読み取るのか、判断するのはやはり、聴衆であり、読者だということなのかもしれない。