かもめもかも

かもめのつぶやきメモ

『無のまなざし』

 

以前読んだ『ガルヴェイアスの犬』の訳者あとがきで、同作で第5回日本翻訳大賞を受賞された木下眞穗さんが、作家の長編第一作として紹介されていた“Nenhum Olhar”。
本書はその全訳だ。
作家はこの長編で若手作家の登竜門とされるジョゼ・サラマーゴ文芸賞を獲得しているとも、聞いていたので、ぜひとも読みたいと思っていた作品だった。

ところが、ところがである。
読み始めてすぐ、これはとんでもない本を開いてしまった!と冷や汗が。
とても「デビュー直後の27歳」が書くようなしろものとは思えない。
ほとんど改行なく続く長文の中には、一見同じフレーズのようにみえるも、よくみると少しずつずらされたあれこれが繰り返し語られ、読んでいるとまるでらせん階段をぐるぐると下っているような気分になってくる。

そうこれは、バベルの塔のようにどんどんと登っていくのではなく、少しずつ円を狭めながら下っていくかのようなのだ。
慌てて進めばめまいがしそうでゆっくりと、慎重に降りていく。


羊飼いのジョゼが結婚したのは、たったひとりの肉親だった父親を亡くした直後に、大男によって妊娠させられ堕胎した娘。
周囲から後ろ指指されたその娘の呼び名は、この結婚によって“あばずれ”から“ジョゼの妻”に変わる。
もっとも、彼女に直接話しかける者など、ほとんどいなかったが。
教会でふたりの結婚式を取り仕切ったのは悪魔だったが、ジョゼにあれこれ疑念を抱かせたのもまた悪魔だった。

70を過ぎた料理女が結婚したのは、同年配の男モイゼスだったが、モイゼスは双子の弟エリアスと小指と小指で繋がっていたから、3人は当然のように一緒に暮らし始める。
やがて料理女は娘を産む。
娘が物心つくころには、父親も双子の叔父も死んでいたが、その娘にとって母親の介護は日々の日課だった。

村の外れには盲目の娼婦が住んでいて、その母も、そのまた母も、やはり盲目の娼婦だった。

日がな一日家の前に座って辺りを眺めている老人たち。
ことによると当人たちよりも他人の方があれこれと詳しいかもしれないぐらい、閉鎖的な小さな田舎の村の中の、親子やきょうだい、男と女の複雑な関係。
そしていつも誰にでもつきまとう死。

悪魔と犬と老人と無垢な子どもと愛と孤独と……。
ゆっくりとらせん状に降りていくその先、あの点にみえるところにはなにがあるのだろう。

のぞき込めばのぞき込むほど、深くなる気がする穴の底を見つめながら、物語を読む。

すべては残酷だ、というのも毎日毎日同じであって、憐れみをかけるような何もないという点で同じであり、時間が世界のなかを通り過ぎ、あるいは世界が時間のなかを通り過ぎ、そして、余分な私は世界のほんの一部なのでそのことを避けることはできないのだ。(p164)

もちろんこれは、巻末の監訳者あとがきにあるようにキリスト教的な世界観のアンチテーゼなのであろう。
だが、あるいはだからこそなのか、神の存在についてもあれこれと考え込まずにはいられない。

読み終えた後もぐるぐると……。